ハマモト経営HOME

「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

   権力を誰に譲るか、    どういうことが起きるか…(1)李徳裕の教え


内部抗争は組織を弱体化させる。

したがって、なるべく起こさない方がよい。

内部で争っていると、
必ずといってよいほど外部から敵が現れて、
弱った味方を亡ぼしてしまうのである。

ところが、太古の昔から人類は
変わることなく、今も政界、財界、
企業や団体などの内部で足の引っ張り合いを
している。

歴史に学んでいないということか、
それとも人間の習性で仕方の無いこと
なのだろうか。

唐王朝の時代の後半は派閥争いが激化した。

穆宗(ぼくそう)皇帝の初年、
翰林(かんりん)学士(詔書の起草を
つかさどる者の官職)となった
李徳裕(りとくゆう)は、
李宗閔(りそうびん)という男を罪に陥れ、
地方官として追いやった。

かつて高級官吏試験を受験したとき、
憲宗(けんそう)皇帝の出題に答えて、
当時宰相をしていた李徳裕の父、
李吉浦(りきっぽ)の失政を手厳しく
批判したのを怨みに思っていたのだ。

これいらい、李徳裕と李宗閔はそれぞれ
派閥を固め、互いに排斥し、蹴落とし合う
ことが四十年の長きにおよんだ。

文宗(ぶんそう)皇帝のときに、
李徳裕は兵部侍郎(へいぶじろう)
(国防担当次官)にとりたてられ、
元老の裴度(はいたく)から

「宰相と為すべき人物である」

と天子に推薦されたほどだったにも
かかわらず、李宗閔が宦官(かんがん)の
援助により宰相となった。

そして、李宗閔は相手が自分の地位に迫り、
すぐ下にいるのを嫌い、地方に左遷した。

さらに牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)を
引き立て、自分と並べて宰相とし、
共に李徳裕一派を追い落としたのであった。

その後、朝廷において牛僧孺が
罷免(ひめん)され、代わって李徳裕が
朝廷に入って宰相となった。

李宗閔もこのときに罷(や)めた。

しかし、次には李宗閔が宰相に戻り、
李徳裕が去った。

この二つの派閥が互いに排斥し合い、
際限なく争い続けた。

文宗はこう嘆いた。

「河北の賊を取り除くのは易しいが、
 朝廷の派閥争いをやめさせるのは難しい」

それからも李徳裕はたびたび官位を
落とされ僻地(へきち)に出されたが、
武宗(ぶそう)皇帝は即位すると、
李徳裕を中央に呼び戻し、宰相とした。

あるとき、李徳裕は武宗にこう忠言した。

「正しい人物は邪(よこしま)な人物を
 指して邪としますが、邪な人物も
 正しい人物を指して邪とします。

 上に立つ者はこの点をはっきりと
 見極めることが大切でございます」


武宗はこの言葉を喜んで受け入れたという。

正か邪か。これを判断するのは難しい。

しかし、誤って邪をトップ、
あるいはトップ近くに置けば、
組織全体が間違った方向に進んでしまう。

企業の場合も、権力を譲る相手については
熟慮して正しい選択をしなければ、
未来は危うくなってしまう。

→続く権力を誰に譲るか、どういうことが起きるか…(2)賢人を選べ」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

inserted by FC2 system