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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

   建前と本音の見極め(2) 宋の蔡京、童貫


宋の徽宗(きそう)皇帝の時代に宰相だった
蔡京(さいけい)は、口では財政改革を唱え
ながら、実際には奢侈(しゃし)に走って
さらに国家財政を苦しくしてしまった人物
である。

宋は、太祖(たいそ)から数えて四代目の
仁(じん)宗皇帝の御世の中盤あたりから、
国家財政が苦しくなった。

軍事費の増大、官僚の人件費、
契丹(きったん)や西夏(せいか)などへの
歳幣(さいへい)(毎年、宋へ侵攻しない
ことを条件に金品などを贈っていた)が
負担となっていた。

財政再建が急務となり、
行財政改革を唱える王安石の一派が
政治の主導権を握るようになった。

そうして改革派の一人、
蔡京が宰相となったのである。

蔡京は、

「現在は、易(えき)にいう
 豊亨予大(ほうこうよだい)、
 豊亨だから豊かな時で奢侈を極めても吉、
 予大だから楽しい時で欲を追求しても吉、
 という運勢にあたっている」

などと邪説を唱え、
徽宗(きそう)に贅沢な暮らしを勧め、
盛んに土木工事を起こして、
都の規模を拡張したり、御所を造営したり、
御苑を築いたり、九鼎(きゅうてい)
(王権の象徴、祭器)を鋳造したりした。

延福(えんぷく)宮、保和(ほうわ)殿、
万歳(ばんざい)山を造成。

朱メンという者に命じて珍花奇岩を
運送する船団の指揮をとらせ、
珍しい花や木や石や鳥や獣を調達させた。

どんな遠いところからでも取り寄せさせた。

民間にある一つの花でも木でもすぐれて
いれば献上させたのである。

一つの花に数千緡(びん)
(緡は、銭の穴に差し通す細い縄)、
一つの石に数万緡という銭を費やす場合も
あった。

こうして二十年間、万歳山の山林は高く深く
なり、大鹿小鹿が群れをなして遊ぶように
なった頃、その名を艮嶽(こんがく)と
改めた。

また、その中に百姓家、茶店、酒店、
それに看板の青旗まで立てさせた。

そして、毎年、冬至の後、この宮廷の中に
燈火をともし、人民に自由に出入りさせ、
酒をふるまい、博打を打たせたのである。

これを上元(じょうげん)(正月十五日)の
宵を賞する祭りであると称した。

時に彗(すい)星がしばしば現れ、
地震が起こり、黄河が決壊するなど、
不思議な現象が次々と起こったが、
おおむねそれらを日常のこととして
怪しまないほどになった。

そればかりか、蔡京らは、甘露が降ったの、
めでたい雲が現れたの、
鶴が空を蔽(おお)うほど飛んだの、
竹に紫色の花が咲いたの、
万年茸が艮嶽に生えたの、
諸州に連理(れんり)の木(ある木の枝と
別の木の枝が連なって一つになった木)が
生えたの、
一つの萼(がく)に二つの花がついている
蓮や芍薬(しゃくやく)や牡丹(ぼたん)が
咲いたのと、
めでたい話を作って奏上した。

また、十二月の雷、三月の雪なども皆、
めでたい兆候であると称してお祝いを
するまでになった。

この頃、宦官(かんがん)の
童貫(どうかん)と梁師成(りょうしせい)
の二人が宮中で事を運ぶ中心となっていた。

梁師成はもっぱら天子のご機嫌取りを務め、
徽宗(きそう)の心を惑わせた。

その勢いは強烈な炎が物を焼き尽くすよう
で、人を脅したり恩を着せたりという行為を
宮廷内でひそかに行っていた。

童貫はもっぱら辺境を広めることに努めて、
国外で事件を起こしていた。

これらは皆、蔡京、およびその子の
攸(ゆう)と呼応して行っていたのである。

遼(りょう)
(契丹に同じ。国号を二転三転している)
からの北辺の圧迫に苦しんでいた宋では、
蔡京と童貫が建議して金に使者を送り、
宋と金(きん)が手を組んで遼を攻めること
を相談させた。

童貫は西方の国境で西羌(せいきょう)から
宋の領土を取り戻すことに成功しており、
北方でも遼に奪われていた燕雲(えんうん)
十六州を取り戻し、さらに遼を征服すること
も可能であると考えるようになっていた。

金からも使者がやってきて、宋と金が遼を
挟み撃ちすることが決まった。

これ以前に高麗(こうらい)(朝鮮半島を
支配していた王朝)は宋に使者を送り、
金と手を組むべきではないこと、
遼が存在している方が宋にとって安全で
あることを助言してきたが、
これを無視する結果となった。

童貫の欲と徽宗の燕雲を取り戻したいと
いう悲願が結びつき、金と連合するという
判断がくだされるのだが、これにより宋は
塗炭の苦しみをなめることとなる。

宋と金は遼を破った後のことについて、
次のように取り決めた。

金は遼の中京(ちゅうけい)の地を取り、
宋は燕京(えんけい)(現在の北京)を
取ること。

宋から金に送る歳幣(さいへい)は従来、
遼に与えていた額と同じにすること。

金はまず、遼の中京を攻め落とした。

宋の童貫、蔡攸(さいゆう)(蔡京の子)軍
は燕京を攻めたが、敗れて退却した。

童貫、蔡攸はこのままでは重い罪を
得るだろうと恐れ、金に約束通り燕京を
挟み撃ちしてくれるよう要請。

金はこれを承諾し、瞬く間に燕京の遼軍を
壊滅させてしまったのである。

金の使者が宋にやってきてこう言った。

「燕京は金の兵によって攻略したのだから、
 土地は宋に返還するが、この地の租税は
 全額、金へ渡してほしい」

宋側は、宋から金に送る歳幣(さいへい)を
遼に与えていた額と同じにするのに加え、
そのほかに銭百万緡(びん)を増し与える
ので租税は勘弁して欲しいこと、
加えて雲中(うんちゅう)の地も合わせて
十六州を宋に返還して欲しいと申し入れた。

しかし、宋に返ってきたのは、
燕京の他は六州に過ぎなかった。

こうして宋軍の童貫、蔡攸は、土地受取人と
して燕に入ってみたところ、燕の金銀絹布は
もちろんのこと、役人から女、子どもも民家
も、すべて金軍が持ち去り、残っているのは
からっぽの古城ばかりであった。

宋は金の力で遼を倒したが、金に与えねば
ならない歳幣は遼への数倍にもあたり、
国家財政が逼迫している宋は
約束を履行できなかった。

そこで金は宋を攻め始めた。

燕京の長官郭薬師(かくやくし)は降伏し、
しかも、さらに南へ攻め続ける金軍の先駆け
を郭薬師が務めた。

太原(たいげん)の地でこれを聞いた
童貫は、戦わずして太原から逃げ帰った。

そこで金の粘罕(ねんかん)の軍が
その太原を包囲した。

宋側の守将、張孝純(ちょうこうじゅん)は
嘆いていった。

「童貫どのは、平素は大いに
 威張っていたが、いざとなると、
 畏れ怯(ひる)むこと、かくのごとし。

 国家の重責を担う大臣の身でありながら、
 国難にあたって死ぬこともできない。

 何の面目があって天下の人々に
 まみえることができようものか」

その後、徽宗は金軍を恐れて退位し、
位を太子に譲った。

欽宗(きんそう)である。

欽宗は徳にもとる行為をしない真面目な
天子であり、蔡京・童貫らは恐れて
他の公子を立てようと計ったが、
実現できなかった。

大学生の陳東(ちんとう)らは上書して、
蔡京・朱メン・童貫・梁師成などの六人を
「六悪人」と呼び、誅殺して、
陛下みずから天下の人民に謝罪することを
願い出た。

六悪人は流罪に処され、後に殺されたが、
蔡京は殺される前に病死したため、
多くの人が悔しがったという。

先に挙げた李克の五つの視点のうち、
蔡京らは、

・すでに金持ちになっている場合は
 何に金を使っているか。
 → 蔡京は天子に贅沢を勧め、
   土木工事などに散財した。

・すでに高位についている場合は
 誰を登用しているか。
 → 蔡京は一族の者や、朱メン、童貫ら
   自分の欲望実現を図る者らと
   つるんだ。

・窮地に陥っている場合は
 道に外れた行為をしていないか。
 → 童貫は宋軍の指揮官でありながら、
   金軍に包囲されると
   戦わずして逃げた。

の三点において、国家の重臣として用いる
べき人間でなかったといえるだろう。

これらを見破ることができなかったのは、
徽宗(きそう)みずから奢侈を望んだり、
燕雲(えんうん)十六州の奪還という
目先のことにとらわれたりという、
私欲に走り遠謀深慮にかける人物で
あったことが原因と考えられる。

その後、金軍からの過酷な和議の条件を
呑んだため、金軍はいったん引き上げた
ものの、宋が約束を履行しないので、
金はまた大軍を繰り出してきた。

そうしてついに、宋の首都、
開封(かいほう)は落城。

徽宗と欽宗は、金へ連れ去られてしまった。

企業において社員が社長と接する場合、
本音で社長にぶつかってくる者の方が
少ない。

一般的に本音でモノを言う人間は煙たく、
建前でモノを言う人間は側に置いて
おきやすいので、
社長に近づくにもニコニコして、
社長が望むような話をするほうが、
いろいろな仕事に起用してもらえたり、
昇進させてくれたりするだろうと
考えるからである。

社長がこれに引っかかって、幹部、管理職に
こういう人間ばかりが就いているとすれば、
それはまさに徽宗の犯した失敗と
同じことだ。

むしろ、
煙たい人間を重視し、
周囲に置いておくほうが、
企業ははるかに安泰なのだと心得よう。


→続く寝首をかく者とその方法(1)董卓と呂布」
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