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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

  覇権を握った者の習性(2)漢の高祖 劉邦


句践でなくとも、
権力の座についた者のなかには、
それまで自分を支えてくれた者たちの粛清を
始めるものが少なくない。

代表的なのが、
漢の高祖劉邦(りゅうほう)である。

劉邦が楚(そ)の項羽(こうう)に
勝てたのは、韓信(かんしん)の働きに
よるところが大きい。

韓信軍は独立軍的な存在であり、
この韓信が劉邦と項羽のどちらに付くかが
重要な分岐点であった。

劉邦から斉(せい)を攻撃するよう
命じられた韓信は、討伐後、
劉邦に使者を送り、言上した。

「斉を鎮定するため、
 仮に斉王に封(ほう)じていただきたい」

と。

韓信から自立の意図を感じた劉邦は
怒ってののしったが、
側にいた張良(ちょうりょう)と
陳平(ちんぺい)が劉邦の足を踏んで、
王となることを許してやるよう、
耳元でささやいた。

劉邦はハッとして印綬(いんじゅ)を贈り、
韓信を斉王としたのである。

こういった経緯もあり、
韓信は劉邦にとって要注意人物であった。

劉邦は項羽を亡ぼした後、韓信から軍を
取り上げて楚に転封(てんぽう)した。

そして、劉邦が帝位についた翌年、
楚王韓信が謀反(むほん)したと告げる者が
あったとき、劉邦は諸侯との会合の場を
設け、そこにやってきた韓信を縛り上げて
洛陽(らくよう)に連れ帰り、
王から侯(こう)に格下げして
淮陰(わいいん)侯とした。

その四年後、劉邦が代(だい)の国の反乱を
鎮定するべく出陣していた折、
韓信の召使の弟から、

「韓信は、代の家老の陳キ(ちんき)と
 気脈を通じて謀反を企てている」

という情報がもたらされた。

劉邦の正室、呂后(りょこう)は重臣の
蕭何(しょうか)と相談して、いつわって
陳キはすでに誅殺(ちゅうさつ)されたと
言いふらし、そのうえで謀反鎮定の祝賀の
挨拶を述べるように韓信に持ちかけた。

そうして、のこのこと出向いた韓信を縛り、
斬り殺したのである。

韓信の三族(父母妻の血族すべて)を
皆殺しにした。

その後、梁(りょう)王の彭越(ほうえつ)
の近侍(きんじ)頭(がしら)が

「梁の将軍、扈輒(こちょう)が彭越に
 謀反を勧めております」

と報告してきたので、劉邦は兵を出し、
彭越を不意打ちして逮捕した。

謀反の形跡は明らかであったが、劉邦は
許して蜀の地に流刑(るけい)にした。

彭越も項羽との戦いでは大変な功が
あった人物なのである。

しかし、これに呂后(りょこう)が反対し、
結局、彭越の三族も皆殺しとなった。

淮南(わいなん)王の黥布(げいふ)は、
韓信と彭越が殺されたのを見て、

「明日はわが身であろう」

と考え、反乱を起こした。

黥布は、初めて劉邦と会った際、
劉邦が足を洗わせながら引見したことに
怒ったものの、宿舎の調度類などが
すべて劉邦と同じであることに感動し、
劉邦に付き従った男であった。

劉邦はみずから兵を率いて黥布を討伐した。

劉邦は、最初に兵を起こした当時からの
付き合いである丞相(じょうしょう)の
蕭何(しょうか)すらも疑った。

それは、蕭何が劉邦に対して、

「長安では、土地が狭いのに、
 上林苑(じょうりんえん)
 (長安の西方にあった大庭園)には
 広大な土地がそのままになっております。

 人民に耕作できるように
 してやってください」

と願い出たことに、人民から賄賂(わいろ)
をもらったか、あるいは人気取りをして
いずれ権力を奪うつもりか、などと疑い、
激怒して、蕭何を牢につないだのである。

これについては、

「今頃、反乱を起こすはずもありません」

と弁護する声が上がり、蕭何は許された。

劉邦は人心掌握の達人であったはずだが、
帝位に上り詰めてからは猜疑心の
固まりとなってしまった。

劉邦は、

「劉氏以外の者が王に立つならば、
 天下の者はこぞってこれを撃ち亡ぼせ」

と言い残している。

最後に信じられるのは血族のみという
考え方がよく現れている。

→続く覇権を握った者の習性(3)秦の始皇帝」
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