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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

権力と人心掌握(2)部下への愛


劉邦が、項羽の下にいた
九江(きゅうこう)王の黥布(げいふ)を
寝返らせる工作をして自陣に呼び、
引見したときのこと。

劉邦は腰掛けに座って足を洗わせていた。
礼儀作法がなっていなかったのである。

黥布はそれを見て馬鹿にされたと怒り、
寝返ったことを悔やんだのだが、
宿舎に引き取ってみて感動した。

調度類や乗り物、食事の献立、付き添いの
役人と、すべて劉邦の住居と
同じだったのだ。

劉邦がいかに黥布を大切に思っているか
ということについて、
本心が伝わったわけである。

西漢王朝を簒奪(さんだつ)した
王莽(おうもう)が人心を掌握するために
行ったのは「演技」だった。

多くの従兄弟(いとこ)が豪奢な生活を
送るなか、王莽はひたすら慎み深く
振る舞い、徳行に努め、
学問に打ち込むふりをした。

服装は質素、外では立派な人物と付き合い、
内では伯父たちに礼儀正しく仕えた。

信頼を得るために、罪を犯した息子たちを
自殺に追いやった。

これらは功を奏し、王莽は天子の地位を
獲得したが、しょせん、
演技は演技に過ぎない。

化けの皮は、新王朝を運営するなかで
徐々に剥がれていった。

幹部社員を対象とした研修などで、
部下から信頼を得るための方法を
学ばせるものがある。

学ばないよりも学ぶ方がよいとは思うが、
上っ面だけ、部下に思いやりがあるかの
ように振舞っても、王莽と同じように
結局はうまくいかないだろう。

本音の部分で部下を愛せないものに
人心掌握はできないのである。


その点、即天武后(そくてんぶこう)は
人心掌握に長けていた。

当時の賢者や才人たちは、武氏のために
働くことを楽しんでいたという。

なかでも徐有功(じょゆうこう)という
人物は、情け深く思いやりがあり、
刑の執行にも寛大であった。

武后は徐有功と意見が対立した場合、
いつも自分が折れて、
徐有功の裁断に従ったという。

その他にも、武后の周囲には優れた
人物が多かった。

魏元忠(ぎげんちゅう)
・婁師徳(ろうしとく)
・狄仁傑(てきじんけつ)
・姚元崇(ようげんすう)は、
いずれも名宰相であった。

宋璟(そうえい)もまた
朝廷において名が知られていた。

婁師徳はいつも狄仁傑のことを
ほめて武后に推薦していたが、
狄仁傑は逆にいつも婁師徳の
悪口を言っていた。

あるとき武后は、狄仁傑にこう言った。

「私があなたを用いているのは、
 婁師徳があなたを薦めたからなのですよ」

これを聞いた狄仁傑は、
御前(ごぜん)をひくと、感嘆して言った。

「婁師徳公の徳は偉大である。
 私は長い間、それに気づかずにいて
 恥ずかしい」

武后の甥(おい)の武承嗣(ぶしょうし)
・武三思(ぶさんし)の二人が、
太子になりたいと求めてきた。

武后もそのつもりでいたが、
狄仁傑はゆったりと落ち着いた様子で
武后に向かい、

「昔、太宗(たいそう)皇帝は、
 風雨にさらされ、
 みずから敵の矛先(ほこさき)を
 かいくぐり、ようやく天下を平定され、
 子孫に伝えられました。

 また、高宗(こうそう)皇帝は
 二人のお子を陛下に託されました。

 ところが今、陛下は皇帝の地位を
 他の血族に移そうとなさっております。

 これは天意に背くことではないで
 しょうか。姑(おば)と姪(おい)の
 関係と母子の間柄とどちらが
 親しいとお思いですか。

 陛下がお子さまを立てれば、
 陛下が崩御された後、
 歴代皇帝を祀(まつ)る
 太廟(たいびょう)に
 合祀(ごうし)され、
 子孫の祭りを受けられるでしょう。

 もしも姪をお立てになれば
 姪が天子となりますが、
 姪の天子が姑を廟に合祀したなど
 聞いたことがありません」

この話を聞いて、
武后もやや悟った様子であった。

しばらくして、狄仁傑が再度、極力、
自分の助言を受け入れられるように
勧めた。

そうしたところ、武后はとうとう
房州(ぼうしゅう)より
慮陵王(ろりょうおう)(武后に
廃立された中宗〈ちゅうそう〉皇帝)
を呼んで都に還らせ、立てて皇太子とし、
子の旦(たん)を相王(しょうおう)と
した。

狄仁傑はもっとも武后から信頼され、
重んじられた。

陛下の面前でその非を責め、
朝廷で堂々と論争した。

武后はいつも自分の意志を屈し、
狄仁傑に従った。

狄仁傑を「国老(こくろう)」と
呼んで名前を呼び捨てにすることは
なかった。

狄仁傑が亡くなったときは、
武后は嘆き悲しんだ。

このように武后は賢人を用い、
しかも忠告をよく聞いたので、
世の中はよく治まった。

武后の専横に怒って兵を挙げる者もあり、
高宗の弟にあたる越(えつ)王貞(てい)
もその一人だったが、武后は鎮圧した
のみでなく、唐室の一族を
ほとんど皆殺しにした。

こうして対抗勢力を弱め、
一方では物分りの良い天子を
演じきったので、生きている間は
武后の世を保つことができたのである。

しかし、武后が病床に伏すようになると、
宰相の張柬之(ちょうかんし)は、
早速、太子を迎え、内乱を討伐すると
称して兵を挙げ、宮中に侵入し、
武后に退位を迫って
上陽宮(じょうようきゅう)に移して
則天大聖(そくてんたいせい)皇帝と
いう尊号をたてまつった。

この年(西暦七百五年)の冬、
八十二歳で武后は亡くなった。

武后に張柬之を宰相にすることを
勧めたのは狄仁傑であった。

武后の優れた人物を見抜く目は
本物だったと言えるだろう。

王莽と武后とでは、王位を簒奪した後の
人心掌握の度合いが大きく違っていた。

権力奪取の後、権力を維持することに
まで十分に配慮し、油断しなかった武后は、
もしも最初から天子として生まれていれば、
大変優れた統治者として記録される人物と
なったかもしれない。

→続く覇権を握った者の習性(1)越王の句践」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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