ハマモト経営HOME

「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

権力と人心掌握(1)項羽と劉邦


権力を握り、それを維持するためには、
人心掌握は必須条件である。

帝堯(ぎょう)のような理想の天子であれ、
王莽(おうもう)、武后(ぶこう)のような
自分の野望を実現しようとする
権力者であれ、人を従わせることが
できなければ上に立つことは難しい。

漢(かん)の高祖(こうそ)
劉邦(りゅうほう)と覇権を争った
項羽(こうう)について考えてみよう。

秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の死後、
二世皇帝の胡亥(こがい)が

「私は耳目の好みを味わい尽くし、
 心の楽しみを極め尽して人生を終えたい」

と言ったことに対し、宦官(かんがん)の
趙高(ちょうこう)は

「陛下、そのためには法律を厳しくし、
 刑罰を重くして、先帝に仕えていた重臣
 を除き、改めて陛下が信頼できる人物を
 起用されるならば、枕を高くして
 やりたい放題に出来るでしょう」

と助言した。

胡亥はこれをもっともだとうなずき、
法律を改訂して厳しくした。

そのため公子や大臣が多数殺された。

こういったことを機に、
世の中は大きく乱れるようになった。

陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の
蜂起を先駆けとして、多くの者が各地で
反乱を起こすなか、秦との戦いで死んだ
楚(そ)の将軍項燕(こうえん)の子で
あった項梁(こうりょう)は、甥(おい)の
項羽に命じて会稽(かいけい)郡の郡守の
殷通(いんとう)を殺させ、官職を奪って
自ら郡守となり、挙兵した。

范増(はんぞう)という知恵者の助言に
もとづき、亡くなった楚の懐(かい)王の
孫の心(しん)を王位につけ懐王とした。

これによって人心を得ようとしたのである。

項梁は秦軍との戦いで戦死した。

懐王は項梁亡き後、
秦に攻められる趙を救うべく、
宋義(そうぎ)を上将、項羽を次将として
軍を編成し、出撃させた。

途中、宋義の勝手なふるまいに怒った項羽は
これを斬り殺し、兵を奪い取って、秦の兵を
鉅鹿(きょろく)の地で大いに打ち破り、
敵将の王離(おうり)らを捕虜とし、
章邯(しょうかん)・薫翳(とうえい)・
司馬欣(しばきん)らの将軍を降参させた。

項羽は諸侯を率いる上将軍となった。

自分の上司を殺して軍を奪い、
敵を下して出世した項羽。

下にいる者たちはこの将軍に恐怖を
感じたことだろう。

楚の懐王は諸侯に、

「最初に関中(かんちゅう)の地に入って
 秦を平定した者を、関中の王とする」

と約束していた。

しかし、当時はまだ秦の勢いが強く、
将軍たちはいずれも関中一番乗りを
望まなかった。

項羽だけは秦が叔父の項梁を殺したのを
怨み、意欲を燃やしていた。

関中攻略の命は劉邦に下ったものの、劉邦と
共に関中に入ることを望んだのである。

ところが、懐王のもとにいる老将たちは、
口をそろえて反対した。

まだ項羽が項梁の指揮下にあった頃、
襄城(じょうじょう)県の秦軍を攻略して
いた際、さんざんにてこずらされた項羽は、
城を陥落させた後、腹いせに敵兵を
ひとり残らず穴埋めにしたことがあった。

項羽の粗暴な行為を覚えていた長老たちは、

「項羽の人柄は、生まれつき粗暴で乱暴で
 ある。それに対して劉邦は寛大で人に
 長たる人物である。劉邦の方が関中の
 人たちの心をつかめるだろう」

と考えたのだ。

項羽よりも劉邦の方がはるかに人心を
掌握できる将だと評価されていたのである。

この後、劉邦を追い出して関中を平定した
項羽は、その旨を懐王に報告した。

しかし、懐王が、

「では、最初に決めた通り(劉邦を関中の
 王にするという意)にせよ」

と言ったので激怒した。

「懐王はもともと我々が立ててやったのだ。
 功績があったわけでもない。約束を
 どうこう言う資格があるものか」

項羽は懐王に形の上だけ
「義帝(ぎてい)」の称号を送って
江南(こうなん)の地に移し、
チンに都を置かせた。

そうして天下を分割し、
諸将を王に封(ほう)じ、
自らは西楚(せいそ)の覇王となった
のである。

その後、結局、項羽は懐王を殺して
しまった。

懐王は何のために立てたのであったか?
人心掌握のためである。

ところが、項羽はその王を殺してしまった。

逆に劉邦はこの件を利用した。

項羽は天下が一致して擁立した義帝を
追放し、殺した逆賊であり、我々は悪者を
討伐する正義の軍だと宣言したのだ。

この檄(げき)に応じた五諸侯の
兵五十六万人を率い、楚を伐(う)った。

項羽は斉に出撃中で留守だったため、
簡単に楚の首都彭城(ほうじょう)を
陥れた。

この後、項羽の逆襲を受け、
両軍は死闘を繰り広げるのだが、
最後に勝ったのは劉邦であった。

その勝因について劉邦は、
人心掌握力の差であると分析している。

「作戦を陣幕の中でめぐらし、
 千里の外に勝利を決する腕前については、
 私は張良(ちょうりょう)に及ばない。

 国家を安らかに治め、人民を癒やし、
 兵糧を調達し、補給路を確保する腕前に
 ついては、私は蕭何(しょうか)に
 及ばない。

 百万もの大軍を率い、必ず勝ちを収め、
 敵の城を奪取する腕前については、
 私は韓信に及ばない。

 この三人はいずれも傑物だ。
 私はその傑物をよく使いこなした。

 これが、私が天下を取った理由である。

 項羽にはたった一人、
 范増という傑物がいたけれども、
 それさえ使いこなせなかった。

 これが、項羽が私にやられた理由である」

項羽は恐怖によって人心をつかもうと
したが、それには限界があった。

上下の間で信頼関係を構築できなかったの
である。

范増との関係も、劉邦側の陳平が行った
離間工作にまんまとひっかかり、
疑心暗鬼が生じて范増の意見を
採用しなくなってしまった。

中小企業においても、
社員をただ怒鳴りあげるばかりの社長を
時々見かけるが、
それによって社長と社員の間に
信頼関係が生じることはない。

このような恐怖によるマネジメントは、
一時的な効果を上げることはあっても
長期的にはマイナスである。

ならば怒鳴らず、何があってもニコニコして
いればよいのかというとそうではない。

問題は、怒鳴るか怒鳴らないかにあるのでは
なく、社員が自分に対する社長の接し方に
愛を感じるかどうかである。

怒鳴られても、それが真剣に自分を思っての
叱責であり、成長を促そうとして行っている
のだということが伝われば、
社員は信頼してついてくるのである。

→続く権力と人心掌握(2)部下への愛」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

inserted by FC2 system