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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

権力者に備わっている資質(2)則天武后は最高レベル


自らの努力で天子にまで上り詰めた王莽に
対し、千載一遇のチャンスを活かして、
中国史上、ただ一人の女帝として君臨した
のが則天武后(そくてんぶこう)である。

唐では、かの名君、
太宗(たいそう)文武(ぶんぶ)皇帝が
崩じた後、太子の治(ち)が立った。

高宗(こうそう)皇帝である。

高宗は太宗が著した

「帝範(ていはん)十二篇」

という帝王の心得を説いた書を太宗から
授けられていた。

しかし、心得のみでなく、父の側室まで
自分のものにしようとした結果、
大変な事態に陥ることとなった。

永徽(えいき)五年(西暦六百五十四年)、
高宗は、父太宗の才人(さいじん)
(天子の側室の官名)であった武(ぶ)氏を
昭儀(しょうぎ)(これも天子の側室の
官名。地位は才人より一つ上)とした。

翌年、高宗は、皇后の王氏を廃し、
昭儀の武氏を立てて皇后にしたいと思った。

このとき、重臣のチョ遂良(すいりょう)は
反対したが、高宗の機嫌を損じまいとする
他の悪賢い重臣たちが賛成し、
武氏が皇后となった。

武后はこの地位を利用して着々と権力を
強め、朝廷を支配していく。

まず、高宗の母、長孫(ちょうそん)氏の
兄である長孫無忌(むき)が、
自分が皇后になろうとしているのを
助けなかったことを怨み、
無忌の官を削って遠い黔州(けんしゅう)
の地に流した。チョ遂良(すいりょう)も
僻地に流され、そこで死んだ。

この時になって、皇后廃立に反対した
柳セキ(りゅうせき)や韓エン(かんえん)
なども皆、殺されてしまったのである。

王皇后に子がなかったので、高宗は身分の
賤(いや)しい妾が生んだ忠(ちゅう)を
太子に立てていた。

しかし、武后は忠を廃して自分の子の
弘(こう)を太子とした。

この弘は情け深く、よく父母に仕えて、
誰からもこの人ならば、と将来に期待を
寄せられる人物であった。

ところが、武后の心に逆らうような一件が
あったため、武后は弘を毒殺した。

その一件とはこうである。

王氏が皇后の頃、彼女は高宗の寵愛を
めぐり、蕭妃(しょうひ)と争っていた。

先帝の太宗が亡くなり、剃髪(ていはつ)
して尼僧となっていた太宗の側室の武氏に
高宗が好意を寄せていることを知った
王氏は、蕭妃を追い落とすために武氏を
宮中に迎えるよう勧めたのである。

ところが、これが誤算であった。

武氏は宮中に入った後、皇后となり、
蕭妃と、そして王氏までもあの世へ
送ったのだ。

蕭妃には二人の娘があった。

弘は、婚期を過ぎていつまでも宮中にいる
二人に同情し、早くどこかへ縁づけるべきで
あると高宗に進言したのだが、武后はこれを
自分へのあてつけだと受け取り、
弘をも殺したのである。

そして、次の子の賢(けん)を太子に
立てた。

ところが、この賢も廃してしまう。

武后が信じていた方士(ほうし)(神仙の
術を身につけた者)で常々、賢について
悪口を言っていた者がいたのだが、
あるとき殺された。

それで武后は賢を疑ったのだ。

その後、次の子の哲(てつ)を立てた。

高宗が崩御されて哲が即位した。
これを中宗皇帝という。

しかし、その翌年、武后はこの中宗を
廃して弟の旦(たん)を即位させた。

睿(えい)宗皇帝である。

実権は武后が握っていた。

七年後、武后は睿宗を自分の世継ぎとして、
自ら即位し、唐を廃して周を建国した。

王莽(おうもう)は劉氏の漢王朝を
簒奪(さんだつ)したが、武后は李氏の
唐王朝を簒奪して、

則天武(そくてんぶ)氏

となったのである。

なぜ、武后は権力を握ることができたの
だろうか。

それは、武后自身の能力の高さによるところ
が大きい。

高宗は癲癇(てんかん)の持病を
抱えており、政務のすべてを処理することが
できなかった。

そのため武后に決裁させることもあったの
だが、武后は生まれつき明敏で、
文章や歴史にも通じており、
政務の処理がすべて高宗の意にかなったの
である。

そのため一切の政事を任されるようになり、
その権力は皇帝と等しくなった。

人々はこれを二人天子と呼んでいたほどだ。

高宗の死後、自分の子どもたちを即位させた
ものの、天子としての仕事は自分がやって
いたのであるから、ならば自分が天子に
なってもよいのではないかという
欲が出てもおかしくはない。

武后は人々が心から自分に心服していない
ことを知っていた。

そのうえ、自分の不品行(宮中で美少年二名
を寵愛していた)に対して人々の非難が
高まることを恐れた武后は、密告を奨励して
自分に批判的な人間を告発した。

残酷無情な役人たちを起用して、
告発された人々に拷問を加え、
工夫して罪名を作り出し、
無罪の者も反逆者に仕立て上げて誅殺した。

武后はこうした方法で人々を厳しく
締めつけた。

ここまでやれば大乱に発展するほどの
武力蜂起が起きてもよさそうなものだが、
武后は人心掌握術に長けていたため従う者も
多く、死の間際まで権力を握り続けたので
ある。

権力者にレベルがあるとすれば、武后は
最高レベルにあったと考えてよいだろう。

自己中心を貫き、病床に伏すまで他人に
邪魔をさせなかったのだから。

権力者は、何よりも自分を大事にし、
自分の思いを遂げることに固執する。

その執拗さはとても常人に理解し難いもので
ある。

これは権力者になってから初めて現れるもの
ではなく、若年の頃から萌芽は見られるもの
と思われる。

目標達成のために徹底的に努力をする点は、
他の優秀なリーダーと何ら変わらないが、
問題は、

他人の苦しみお構いなし

という点にある。

社員の中にこのようなタイプの者がいれば、
それは権力志向であると考えて間違いない。

上位職に登用する場合は
十分に気をつけた方がよい。


→続く権力と人心掌握(1)項羽と劉邦」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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