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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

3.権力の本質と内部抗争編

権力を得ようとするものの本質


「権力」について辞書(大辞泉)には

「他人を強制し服従させる力。
 特に国家や政府などがもつ、
 国民に対する強制力」

とある。

意味を知らなくても、何かしら自分に
対して働いてくる力について、
人は子どもの頃から敏感に感じるものだ。

親、兄や姉、近所の悪ガキなどから何かを
強制され、それに抵抗して泣き、
屈服してしまう自分を情けなく思う。

少し成長すると、抵抗して自分の意思を
貫こうとする姿勢が強くなってくる。

思春期によく見られる反抗的な態度も
そのひとつだろう。

企業内では若い社員ほど「反権力」である
ことが多い。

結婚もしておらず、守らねばならぬ相手が
いないとか、所帯を構えていても、
まだ若くていくらでも転職できる自信の
ある者は、金もいくらかあればよいし、
どうしてもその会社で出世しなければ
ならないわけでもない。

そうした背景は、社長や上司の理不尽な
行動や発言に正面から歯向かっていく
言動へとつながる。

ところが、年齢を重ね、
子どもも大きくなって学費がかかり、
自宅を購入してローンも抱えるといった
状態になると、もしも権力者に反抗して
給料が下がったり、万が一クビにでも
なったりしたら私生活に大きな影響が
出てしまう。

そこで、権力迎合の姿勢が出てきやすい。

しかし、権力者に合わせるばかりでは
精神的に疲れるので、できれば自分も
権力者の側に立ちたいと望むのである。

そうして、巧みに出世を図りつつ、
自らの力を拡大する方向へ動く…。

もちろん、人間が上に立とうとするのは、
こうした権力奪取の動機からばかりでは
ない。

世のため人のためという立派な志から
動く人物も大勢いる。

しかし、世の中の権力構造の中心に、
人間の身を守ろうとする本能があることは
間違いない。

まず、社会が権力と無縁であった頃の話を
ひも解こう。

儒家において理想の聖人とされる
帝堯(ぎょう)は、
仁徳は天のようにあまねく広がり、
知恵は神のようにすぐれ、
近くによると太陽のように温かく、
遠くから望むと雨雲のように人々を
潤す存在だった。

平陽(へいよう)の地に都を置いていたが、
その宮殿は茅(かや)ぶきで軒先も
切りそろえておらず、土の階段はわずか
三段という質素さであった。

帝堯は、
天下を治めること五十年に及んだが、
天下が治まっているのか、いないのか、
万民が自分を天子に戴(いただ)くことを
願っているのか、いないのか、
分からなかった。

そこで側近に尋ねてみたが分からない。

民間の者に尋ねてみても分からない。

仕方なく、しのびの服装でこっそりと
繁華な大通りに出かけてみた。

すると、
子どもたちの歌声が聞こえてきたのだ。

「みなの暮らしが成り立つは
 堯さまの徳あってこそ
 知らず知らずに導かれ
 堯さまの道、歩みます」


また、一人の老人が口に食物を
含みながら腹つづみをうち、
木製で履物の形をした遊具を
打って調子をとりつつ歌っていた。

「日が出りゃ働き、暮れれば休む
 井戸を穿(うが)って水を飲み
 田を耕して米を食う
 天子の力、わしらにゃ無縁」


帝堯が街に出てみると、
民は極めて平和な日々を送っていた。

それは「知らず知らず」のうちに
そのような生活が出来ているのであり、
民は帝の存在や、権力によって
支配されていることなどを
感じていなかった。

もちろん、このような暮らしが送れるのは
堯の力が偉大だからである。

これこそ、
古代中国で理想とされた政治であった。

帝堯自身の暮らしも実に質素で、
おそらく衣食住すべての面で、
ほとんど民と変わらなかったのでは
ないだろうか。

上に立つ者がこのようであれば、
民も十分に満足のいく生活ができ、
権力を得たいなどと欲望を膨らませる者も
出にくくなるのだ。

つまり、すでに権力を握っている者が、
それを行使して自分の巨大な欲望を
満たそうとさえしなければ、皆、
権力欲にかられることもないのである。

しかし、人類は悪天候や川の氾濫などの
自然の猛威に対応できるようになるにつれ、
少しずつ自分の楽しみを追求するように
なり、それが次第にエスカレートして
いった。

その結果、前章で挙げた夏(か)の
桀(けつ)王や殷(いん)の紂(ちゅう)王
といった悪の権化のような天子が現れたと
思われるのだ。

このような場合、力には力で対抗しようと
するのが普通の人間である。

老子は、

「怨(うら)みに報(むく)ゆるに徳を
 以(もっ)てす」
(「老子」第六十三章)

つまり、相手に怨みを抱いても力で
抑え込もうとせず、徳で包み込むことで
相手の力を奪えという。

誰もがこの考え方で動けば、
権力闘争にはならない。

しかし、現実に目の前で近親者や友人が
殺され、自分も殺されかけた場合、

「さぁ、徳で包み込もう」

と考えられるのはよほどの聖人しかいない。

残りの九十九パーセントは戦うか、
逃げるか。二つに一つである。

つまり、人は、

食うか食われるかという、
限りない人間同士の闘争から身を守るため

に権力を得ようとするのである。

防衛意識が過剰になった人間ほど
権力奪取へ向かう。

難しく考える必要はない。

例えば、食卓にカレーライスがあるとする。

二人の兄弟がいて、両者が腹いっぱい
食べても食べきれないほどあるなら、二人
とも自分のペースでゆっくり食べるだろう。

ところが、せいぜい一杯分しかなく、
早いもの勝ちと言われたら、二人とも
競い合ってより多く食べようとする。

ここに権力闘争の芽が生まれるわけだ。

強い兄は弱い弟を力で押さえつけて
食べようとし、弟は親を味方につけて自分の
食い扶持を確保しようとするのである。

もしも、兄が「徳を以て」接し、
好きなだけ弟に食べさせようとするなら、
権力闘争は生まれない。

上位の者の接し方次第なのである。

→続く権力者に備わっている資質(1)王莽の野望」
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