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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

愛と憎しみ 臥薪嘗胆


人が何を愛し、何を憎んでいるか。

これは人生そのものと
言っていいかもしれない。

愛する対象を守るため、憎んでいる対象を
倒すために、人は自分の人生の貴重な時間の
大半を費やすことになるからである。

呉(ご)は、周と同じく姫(き)姓の国で、
周の文(ぶん)王(殷の紂(ちゅう)王を
伐(う)って周王朝を開いた
武(ぶ)王の父)の伯父にあたる
太伯(たいはく)・仲雍(ちゅうよう)が
封(ほう)ぜられた国である。

十九代目の寿夢(じゅぼう)のときに
はじめて王と称した。

この寿夢から四代を経て、
闔盧(こうりょ)に至った。

闔盧は伍員(ごうん)を顧問に取り立てて、
国の政事を相談した。

伍員は字(あざな)
(成人男子が実名以外につけた名)
を子胥(ししょ)といい、楚(そ)の人、
伍奢(ごしゃ)の子である。

伍奢は楚の平王に殺された。

強烈な怨みを抱いた伍子胥は呉に逃げて
闔盧に仕えると、呉軍を率いて楚の都で
ある郢(えい)に攻め入り、
父のあだ討ちを果たしたのである。

その後、呉は越(えつ)を伐ち、
その戦いの際に受けた傷がもとで
闔盧は死んだ。

闔盧の子、夫差(ふさ)が王位につき、
伍子胥はまた夫差に仕えた。

夫差は父の仇(あだ)を討とうと志し、
朝晩、薪(たきぎ)の中に寝起きして
わが身を苦しめた。

復讐の成功を期すためである。

出入りする臣には、

「夫差よ、汝(なんじ)は越人が汝の父を
 殺したことを忘れてはいまいな」

と声をかけさせた。

復讐心を燃やし続けるためである。

周の敬王の二十六年に、夫差はとうとう、
越を夫椒(ふしょう)の地で打ち破った。

越王の句践(こうせん)は、
敗残の兵と共に
会稽(かいけい)山に立てこもり、

「私は呉王の臣下となり、
 妻は呉王の妾(めかけ)となりますから、
 どうかお助けください」

と申し出た。

生かしておくことが危険であることを
よく知っている伍子胥は、

「不可です。殺さねばなりません」

と言ったが、太宰(たいさい)(百官の長)
の伯ヒ(はくひ)は越から賄賂(わいろ)
を受け取っており、
夫差を説得して越を許させた。

句践は国に帰り、寝起きする部屋に獣の肝を
吊り下げて、仰向いてはこれを嘗(な)め、

「汝は会稽山の恥を忘れたか」

といっては復讐心を燃やし続けた。

国の政事は大夫の文種(ぶんしょう)に
すべてを任せ、
自分は重臣の范蠡(はんれい)とともに兵を
調練し、呉を伐つ計略に専念したのである。

伯ヒ(はくひ)は夫差に、

「伍子胥は自分の意見が用いられなかった
 ことを恥ずかしく思い、
 大王を怨んでおります」

と、事実を曲げて言った。

夫差はこれを信じて怒り、伍子胥に
属鏤(しょくる)という剣を与えた。

自殺を命じたのである。

伍子胥は死に際、家族の者にこう告げた。

「必ず私の墓にヒサギの木を植えよ。
 ヒサギは呉王の棺桶(かんおけ)を
 つくる材料にすることができるから。

 また、わが目の玉をえぐって城の
 東門にかけよ。その目で越兵が
 呉を亡ぼすのを見とどけたいのだ」

そして、自ら首をはねて死んだ。

夫差はこのことを聞いて怒り、
伍子胥の屍(しかばね)を取り上げ、
馬の革でつくった袋に入れ、
長江に投げ捨てた。

呉の人たちはこれを憐れみ、
長江のほとりに祠(ほこら)を建てて
胥山(しょざん)と名づけ、
伍子胥の霊を弔(とむら)った。

復讐に向けて動き出した越は、
最初の十年は民を養い、
経済を盛んにすることに努め、
あとの十年は兵の訓練に努めた。

かくして周(しゅう)の元(げん)王の四年
(前四百七十二年)、
越はついに呉を伐った。

呉は越と三度戦って三度とも敗れて逃げた。

夫差は姑蘇(こそ)山にのぼり、
かつて越の句践がしたように和議を請うた。

しかし、越の范蠡は聞き入れなかった。

夫差は、

「伍子胥に会わせる顔がない」

と言って覆面で顔を覆い、自殺した。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」

という故事成語(こじせいご)には、
復讐のために耐え忍ぶとか、
成功するために苦労に耐えると
いうような意味がある。

後者の意味にとれば前向きでよい印象が
あるが、本来は、愛する者を殺されるなど
して抱いた強烈な憎しみをはらすための
精進、努力というような、極めて
後ろ向きの意を含んだ語であった。

もとはといえば呉王の闔盧が自分で越を
攻めておきながら、その戦闘で受けた傷が
もとで死んだという、いわば自業自得の話
であり、その時点で完結すべきものである。

ところが闔盧は死に際に、

「句践(こうせん)が汝(なんじ)の父を
 殺したことを忘れるな」

と夫差に言ったと「史記」にある。

自らリスクの高いことに乗り出しておきなが
ら、失敗して逆恨みしているのみならず、
息子の夫差にまで復讐を強いたのだ。

夫差は愛する父を殺されたことで越を伐つ
ことに燃えたが、最終的に句践を助けた
ところをみると、本心ではそこまで怨みを
感じていなかったのかもしれない。

父の遺言に忠実に動いたというだけだった
のではないか。

しかし、句践に情けをかけたことがあだと
なり、呉は越に亡ぼされ、自分も命を
落としてしまった。

最後に勝利者となったのは句践だが、
怨み続けた二十年もの期間、心に平和は
無かったであろうことを考えると、
句践の選んだ復讐への道が正しいと
言えるかどうかは分からない。

愛と憎しみは確かに人間にとって原動力と
なりえる感情である。

愛する者のために努力する姿は美しい。
そこには皆で喜び、たたえあう平和な光景が
広がる。

しかし、歴史をかえりみれば、
憎しみの方がはるかに人を動かす力として
大きいようである。

このからくりに引っかかった者は、
人生の長い期間を怨み続けて過ごしたり、
最後の最後に怨まれて死んだりすることも
多いようだ。


企業経営においても、取引上の問題や
社内の人事抗争など、恨みが発生する場面が
多々ある。

そんなときに憎しみを自分の原動力にして
しまうのは、本人にとっても周囲にとっても
不幸な結果となる。

気をつけたいものである。

→続く「欲望を制御するものと方法(1)創業と守成」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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