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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

人間の持つ残虐性 呂后の復讐


現代でも時折、殺人や虐待など、
むごたらしい事件が報道されている。

それらを見たり聞いたりした
ほとんどの人は、

「よくもまあ、そんなことができるものだ」

と感じているだろうが、中国の歴史上には、
想像するだけでも恐ろしすぎる残虐な
殺害方法や刑罰が数多く行われていた。

漢(かん)の高祖劉邦(りゅうほう)は、
晩年、側室の戚(せき)夫人を
寵愛していた。

戚夫人はのちの趙(ちょう)王、
如意(じょい)を生んだ。

そういうわけで正室の呂后(りょこう)は
すっかり疎んじられていた。

呂后の生んだ盈(えい)太子は、
慈悲深いという長所はあったが、
体が弱かった。

それに対して如意は劉邦に似て活発な性格で
あり、可愛くて仕方なかったのだ。

劉邦は盈太子を廃して、
如意を太子にしようと思うようになった。

群臣は口々に諫めたが、
どれも聞き入れられなかった。

それで呂后は張良(ちょうりょう)の
ところに使者を送り、無理やり、
対策を立てるよう頼ませた。

張良は、

「この問題は口先で争っても難しい
 でしょう。思い返せば、帝が招こうと
 してもどうしても実現できない者が
 四人おります。

 東園公(とうえんこう)、
 綺里季(きりき)、
 夏黄公(かこうこう)、
 ロク里(ろくり)先生です。

 彼らは帝が相手を馬鹿にするのを嫌い、
 山中に逃れ、隠れているのです。

 義を重んじて、漢の臣になりません。
 帝もこの四人には一目置いております。

 今、盈太子が自ら辞を低くして手紙を
 書き、上等の車を用意して『ぜひに』と
 出仕をお招きなさるならば、
 きっと彼らは承諾するでしょう。

 こちらに到着されたら賓客として接し、
 時折、彼らを従えて朝廷にお出ましに
 なることです。

 その姿を帝のお目にかけるように
 されたら、太子を廃嫡から守る一助と
 なるでしょう」

呂后は使者をやって太子の手紙を四人に
送り、彼らを招いた。

すると四人はやってきた。

その頃、劉邦はいよいよ太子を代えようと
考えていた。

あるとき、宮中で酒宴を開いた。

盈太子もはべっていたが、張良が招いた
四人の者も従っていた。

年齢は、皆、八十歳以上、
鬚(ひげ)も眉も真っ白で、
衣冠を身につけた姿には威厳がある。

劉邦は不審に思って尋ねると、
四人は進み出て、おのおの姓名を名乗った。

劉邦は大いに驚いて言った。

「私は貴公たちを何年も前から探していた
 けれども、貴公たちはずっと私を避けて
 おられた。

 それが今、どうしてわが子に従って
 客となっておられるのか」

四人が言うには、

「陛下は士を軽んじてよく罵(ののし)
 られます。私どもは、そのように辱めら
 れてまで仕える筋合いはありません。

 一方、太子は慈悲深く、孝心もあり、
 士に対して恭しく接しておられるので、
 天下の者は太子を慕い、太子のために
 死ぬことを願わない者はないと聞きます。

 それゆえ私たちも
 参上つかまつったのです」

「では、貴公たちの世話になろう。
 よろしく頼む」

劉邦は言い、四人は退出した。
劉邦は戚夫人を招き、四人の老人を
指さして言うには、

「私は如意を太子にしたかったが、
 あの四人の者が盈太子を助けているから、
 鳥の子に羽や翼が生え揃ったも同様で
 ある。私の力をもってしても、
 もうどうにもならぬ」

高祖劉邦の没後、
天子の母として太后(たいこう)となった
呂后の憎しみが爆発した。

劉邦の寵愛をひとり占めにしたのみならず、
わが子如意を太子にと泣いて劉邦を
口説いた戚夫人のせいで、
あわや盈は廃嫡されかけたのだ。

呂太后はまず、如意を毒殺した。

「史記」には、母の如意への殺意に気づいて
いた盈(孝恵(こうけい)皇帝)は、
この異母弟を守ろうと努力したとある。

しかし、盈が狩りに出かけているうちに
殺害されてしまったのだ。

その後、呂太后は宮中の一画、
永巷(えいこう)に幽閉していた戚夫人の
手足を切り落とし、目玉をくり抜き、
耳を焼ききり、薬を飲ませて喉(のど)を
つぶした。

そして便所に置いて
「人豚(ひとぶた)」と名づけた。

呂太后は盈を呼び、これを見せた。

盈は戚夫人の変わり果てた姿を見て驚き、
大声で泣き叫んだ。

ついにそれがもとで病気になり、
一年余りも起き上がることができなかった。

果たして、人間がここまでできるものなの
だろうか。

古代中国では体を傷つける刑として
ギ(鼻切り)、ゲツ(足切り)、
宮(きゅう)(男性生殖器の切除)、
黥(げい)(入れ墨)などがあった。

死刑の仕方でむごいものには車裂きの刑や、
凌遅刑(りょうちけい)(少しずつ切り
刻む)というのもあったようだ。

歴史上の人物の中では、
「孫ピン(そんぴん)兵法」で名高い孫ピン
が足切りの刑を、
「史記」を著した司馬遷(しばせん)が
宮刑を、
秦の改革を行った商鞅(しょうおう)が
車裂きの刑を受けており、
孔子の弟子であった子路(しろ)は死後に
死体を切り刻まれシオカラにされている。

これらの刑が行われていたことを考えれば、
呂太后が憎くてたまらなかった戚夫人を
「人豚」にしたというのも十分ありえそうに
思える。

また、漢の高祖劉邦と争った
項羽(こうう)は、追い詰められて自ら首を
かき切ったが、功を競った漢軍の兵士たちが
項羽の死体に殺到し、死骸を奪い合って、
その争いで数十人が死に、結局、項羽の頭と
手足一本ずつを五人が分け合ったと
「史記」にある。

権力者だけが残虐になるというわけでは
なく、下位の者でも欲に目がくらむと
通常では考えられない残虐行為を行って
しまうのである。

いずれにせよ、人間というのはここまで
おぞましいことができるということを
知っておくべきだ。

誰の中にも残虐性の種は潜んでいるので
ある。職場で立場を利用して嫌がらせを行う
パワーハラスメントや差別的扱い、取引先に
対する冷酷な対応などに、
その萌芽を見ることができる。

→続く愛と憎しみ 臥薪嘗胆」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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