ハマモト経営HOME

「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

不老長寿(2)西漢の武帝


始皇帝が不老不死を求めたのは晩年になって
からだが、西漢の孝武(こうぶ)皇帝は
二十代の頃から興味を示し、方士の助言を
真に受けて努力を重ね始めている。

元光(げんこう)二年(前百三十四年)、
方士の李少君(りしょうくん)が武帝に
目通りして、巧みに奇抜な話をもちかけた
のだが、これが武帝の心をとらえた。

李少君が言うには、

「竈(かまど)の神を祭りますと、
 何でも欲しい物を手に入れることが
 可能になります。

 竈の神を祭ってから丹砂(たんさ)
 (仙薬)を練りますと黄金が得られます。

 その黄金で盃(はい)をつくって用いれ
 ば、蓬莱島の仙人に会うことができます。

 仙人に会ってから封禅(ほうぜん)の
 儀式(土を盛り上げ壇を築いて天を祭り、
 地を清めて山川を祭る儀式)を執り行う
 ならば、死ぬということが無くなります」

武帝はすっかりこれを信じ、
自分の手で竈の神を祭るようになった。

また、方士を東海に派遣して、蓬莱島に
住む仙人の安期生(あんきせい)らを
探させた。

この噂が広まり、東海のほとりの燕(えん)
や斉(せい)の国々の奇怪なことを言う者
たちが続々とやってきて、
神仙に関することを言上した。

元封(げんぽう)元年(前百十年)、
武帝はコウ氏(こうし)県に行き、
嵩(すう)山に登り、封禅の儀式を
執り行った。

その後、東海の海上を巡って仙人を
探し求めた。

方士の公孫卿(こうそんけい)が、

「神仙は高い楼台にいることを好まれます」

と言ったので、武帝はさっそく
蜚廉(ひれん)閣、桂館(けいかん)閣、
通天茎(つうてんけい)台などの高楼を
建てた。

また首山(しゅざん)宮、
建章(けんしょう)宮をつくり、
多くの門や家を建てた。

建章宮の内部は、東には鳳(ほう)閣、
西には虎を飼う檻(おり)、
北には太液(たいえき)という池があり、
池の中には漸台という高楼を建て、
蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、
瀛州(えいしゅう)、壷梁(こりょう)など
の島をつくった。

南には宝玉をちりばめた堂や門がつくられ、
神明(しんめい)台を立て、
明光(めいこう)宮をつくったが、
皆、贅(ぜい)を尽くしたものであった。

武帝はまた、しばしば地方を巡幸しては
盛んに神々の祭りを行い、
封禅の儀式を執り行ったのである。

こうした事業の結果、国家の財政は逼迫し、
軍功によって与える爵位を
金で売り与えたり、
貨幣も白鹿の皮で紙幣をつくったり、
錫(すず)入りの銀貨で代用したりした。

徴税は過酷になり、
世の中は不景気となって、
武帝の晩年には盗賊が出るように
なったのである。

この武帝にとってよかったのは、最晩年に、
不老不死の夢から醒めたことである。

無実の太子がやむを得ず起こした反乱を、
そうと知らずに鎮圧し、太子を自殺に
追い込むという誤りを犯した武帝は
深い悲しみに沈み、後悔してやまなかった。

方士たちを朝廷から放逐し、相次ぐ外征や
厳しい徴税によって民を苦しめた政策に
ついて自己批判したのである。

武帝はこう言ったという。

「この世に仙人などいるだろうか、
 いるわけがない。

 すべてでたらめである。食を節制し、
 病気のときに薬を飲んでいれば、
 少し病気を少なく出来るという
 程度のことだ」

この答えを得るのに、
武帝は莫大な授業料を支払った。

しかし、最後まで迷い道から
抜けられなかった始皇帝に比べれば、
はるかに幸福であったと言えるだろう。

さすがに現代の経営者が不老長寿を
追い求めることはないだろう。

しかし、方士や仙人にあたる存在、
例えば占い師や霊能力者的な人たちを
頼りきり、言われるがまま経営を行う
ケースは時々ある。それが一概に悪い
とは言わないが、そんな経営者たちから、

「私は社会貢献をするために占いを
 使っているのだ」

といった言葉を聞いたことがない。

皆、基本的には目の前の売り上げや
利益欲しさというのが動機である。

果たして、経営者がそれでよいのだろうか。
一度、考え直してみるべきだろう。

→続く権力と支配(1)穆王の馬車遊び」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

inserted by FC2 system