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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

8.時代を読む先見と行動編

これから起きることの本質(3)元、金を亡ぼす 

南宋の嘉定(かてい)元年
(西暦千二百八年)、金で
衛紹王(えいしょうおう)が即位したことを
機に、元は金との国交を断絶した。

嘉定三年、金は元を討とうと謀り、
軍事面での要衝(ようしょう)である
烏沙堡(うさほう)の地に陣地を構築した。

すると、元の太祖は将を遣わし、
襲撃して多数の金兵を殺して東進した。

嘉定四年、元の太祖は南方に軍を進めて金に
侵攻し、金軍を破った。宮廷の牧場を襲って
その馬を奪い、駆り立てて帰還した。

これ以来毎年、
元は金の州都を攻めては取った。

嘉定六年、元の太祖は兵を三方面に分けて
南下し、燕南(えんなん)、
山東(さんとう)、河北(かほく)の
五十余郡を取った。

嘉定七年、元の太祖は燕京(えんけい)の北
に進駐した。

金は先代の允済(いんせい)の娘、および
少年少女各五百人、馬三千頭、それに
金や絹などを献じて和を請うた。

金の宣(せん)宗は、和議が許された
ものの、燕京において自立することはもはや
不可能と考え、五月にベン京(べんけい)の
地に遷都し、燕京には丞相を留めて太子を
補佐させた。

元の太祖は、和解したにもかかわらず都を
遷すのは元を信頼していない証であると
怒り、兵を遣わして燕京を包囲させた。

太子はベン京に逃げ、
その一年後に燕京は陥落した。

元の兵は河東(かとう)から黄河を渡って
南下し、ベン京から二十里の地まで攻め
寄せたが、金軍の反撃を受けて引き上げた。

南宋の宝慶(ほうけい)三年
(西暦千二百二十七年)七月、
元の太祖、成吉思汗(じんぎすかん)は、

「南宋から道を借りて、
 金の首都、ベン京を攻めよ」

と遺言して亡くなった。

後を継いだ太宗の窩闊台(おごたい)は、
みずから出陣するなど金を伐(う)つことに
意欲的だった。

また、南宋に使者を派遣し、
道を借りることを申し込んだが、
南宋は元の使者を殺してしまった。

それでもなお新たな使者を送り、
元と南宋が同盟して金を挟み撃ちすることを
相談させ、ついにこれを成立させた。

南宋の端平(たんぺい)元年
(西暦千二百三十四年)、
元と南宋は同時に金を攻撃して亡ぼした。

元は千二百八年に金との国交を断絶して
以来、二十六年で金を滅亡させたのである。

→続く「これから起きることの本質(4)突然変異に注意」
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