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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

崩壊後に起きること…    (5)賈似道の専横  


賈似道(かじどう)は功を独占すべく、
他の将軍たちを陥れようと企んだ。

軍隊が戦場から引き上げてくると軍事費清算
を行って、不足が生じた場合は公金流用の罪
で将軍たちに汚名を着せようとした。

多くの将軍たちが軍事費を盗んだとか隠した
という罪で官をやめさせられたり、
賠償金を取られたりした。

賠償金のもっとも多かったある将軍は
地方に流されて死んでしまったが、
賈似道はその妻妾を拘留して賠償金を
追徴するほどであった。

景定五年(西暦千二百六十四年)、
理宗が崩御した。

六十一歳であった。

理宗と賈似道はこの年になってようやく互い
に疑い合うようになった形跡があるが、
賈似道を更迭するところまでは
いかなかった。

度(たく)宗皇帝が即位した。

朝廷では賈似道の専横が続いた。

賈似道は別に宰相を立てて、自分の手足と
し、自分は邸宅を西湖(せいこ)
(現在、世界遺産となっている美しい湖)の
ほとりに建てて豊かな暮らしを
楽しんでいた。

五日に一度、船に乗って朝廷に入るのみで、
通常は役所で政務をとることはなかった。

役人が文書を抱えて賈似道の邸宅に行き、
決裁の署名をもらった。

他の大臣は形式的に書類の最後に署名する
のみ。

朝廷の内外の役人の弾劾、推薦、任免など
すべて賈似道を通さない限り、
実行されなかった。

正しい人物は排斥され、罷免されて、
ほとんどが朝廷からいなくなった。

役人は争って賈似道に賄賂を送り、
良い職に就こうとした。

将軍や地方の奉行や郡守になろうと考える者
は、賈似道への金銭物品の献上品が特に
多く、数え切れないほどであった。

このようにして貪欲に地位や富を追求する
雰囲気が社会一般にはびこってしまった。

また、賈似道は軍隊が国境の外で敗北する
ことがあっても、隠して天子に奏上する
ことはなかった。

朝廷ははっきりとした理由もなく死罪に
処したり、罰したりしていたので、
下々の民は賈似道を怨んでいても、
彼の非を訴え出る者はいなかった。

賈似道は人の功を賞するのには
吝嗇(りんしょく)であり、何かと非を
責めて財貨を奪うには抜け目がなかった
ので、将軍らの人望を失ってしまった。

→続く「崩壊後に起きること…(6)賈似道への反発」
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