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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

傲慢と短気(2)       帝号を奪われた男   


元(げん)の太祖、
成吉思汗(じんぎすかん)は、あるとき、
例年どおり、貢物を金(きん)に献上した。

金では、皇帝の叔父にあたる
衛紹(えいしょう)王の允済(いんせい)に
命じて、貢物を静(せい)州にて
受け取らせた。

ところが、成吉思汗は允済に会っても、
臣下の礼をとらなかった。

允済は怒って、金に帰るなり、
兵を請うて元を攻めようと思った。

しかし、折悪く皇帝の章(しょう)宗が
没したので、允済が位を継いだ。

即位の詔書は元にも届き、

「拝礼して受けるように」

との伝言があった。

成吉思汗は金の使者に、

「新君は誰か」

と尋ねたところ、使者は、

「衛紹王である」

と応えた。

すると成吉思汗は、北面して臣下の礼で
詔書を受け取るべきところを、にわかに
南に向かって唾を吐き捨てていった。

「中原の皇帝というのは天上から降りてきた
 高貴な人がなるものとばかり思っていた
 が、あんなつまらぬ奴でも皇帝になれる
 のか。

 拝むなど滅相もない」

言い終わるや、
成吉思汗は馬に鞭をあてて立ち去った。

金の使者が還って報告すると、
允済はますます怒った。

そして、成吉思汗が再び入貢してきたら
殺そうと思っていたのだが、成吉思汗は
これを知り、ついに金との国交を断った。

宋(そう)の嘉定(かてい)三年
(西暦千二百十年)、
金は元を討とうと謀り、
烏沙堡(うさほう)の陣地を構築した。

すると成吉思汗は将を遣わし、
これを襲撃して多数の金兵を殺し、
土地を攻め取って東へ進んだ。

翌年の春、成吉思汗は南方の金に侵入し、
金軍を破り、牛馬を飼育する役所を襲い、
馬を駆って帰還した。

これからというもの、毎年、
元は金の州郡を攻めては取った。

金の君主である衛紹王の允済は、
在位五年の間、元軍に攻撃され続けながら、
ほとんど防ぎきれなかったうえに将士の人望
も失い、嘉定六年、一人の大将に殺された。

金と元とは、
元が金に貢物を送る関係にあった。

このとき金は中原を支配しており、
元は北方の蛮族である。

允済は元を見下しており、
その態度が成吉思汗には
不愉快極まりなかったのだろう。

允済は部下に対しても同様の傲慢な態度で
接したのかもしれない。

人望もなく、実績もあげられない皇帝は
誰にも認められなかった。

彼は死後、帝号を奪われ、
東海郡侯に格下げされてしまったのである。

→続く「傲慢と短気(3)口の軽さが命取りに」
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