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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

手柄と慢心(5)       韓タク冑、誅殺さる   


皇后の楊(よう)氏は経書史書に明るく、
古今の興亡に通じていた。

当時、礼部侍郎(れいぶじろう)
(文部大臣)であった史弥遠(しびえん)は
韓(かん)タク冑(ちゅう)誅殺に関する
秘密の計画を立てていたが、
これは皇后が密旨を出していたのである。

ある日、韓タク冑が朝廷に参内したとき、
史弥遠は御所警護兵の長官に命じ、
兵を率いて途中で待ち伏せさせ、
韓タク冑をつかまえて玉津園(ぎょくしん
えん)に連れ出し、槌(つち)(物を叩く
工具)で殴り殺させた。

嘉定(かてい)元年(西暦千二百八年)、
韓タク冑の一味は次々と流罪や斬罪に
処せられた。

朝廷では韓タク冑の首を箱に入れ、
謝罪のしるしとして金に送った。

その結果、和議が再び成立した。

韓タク冑はもともと権力欲旺盛な
人間だったのだろう。

寧宗擁立の際に趙汝愚と太皇太后を
引き合わせたというだけのことで、
自分には力があると慢心した。

確かに、人的なつながりを作る能力には
長けていたのかもしれない。

朱熹を退け、その一門を「偽学」と
名づけてことごとく蹴落とし、
自分に擦り寄ってくる者たちを登用して
朝廷内に一大勢力を作ったほどである。

しかし、内部抗争と対外的な戦争とは
まったく勝手が違ったようだ。

彼は金の実力を見誤り、宋を敗北させ、
みずからも朝廷内の敵対勢力によって
殺されてしまった。

慢心から不得手なものにまで
手を出した結果である。

→続く「手柄と慢心(6)衆望を集めた郭子儀」
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