韓(かん)タク冑(ちゅう)は自分の手足と
なる人物を用いるようにし、 逆に朝廷の善良な人間は 根こそぎ弾圧した。
また、これらの正しい者たちの党に属する 人物の姓名を帳簿に記録し、
「偽学(ぎがく)」
と名づけ、朱熹をその首魁(しゅかい)と した。
帳簿に記された者は数十人に上る。
朱熹の高弟の一人もこれに連座して 道(どう)州に流された。
大学生の一部も党の人々を救おうとして
上書し、連座して流された。
以前、宰相であった留正(りゅうせい)も、 かつて党人を登用したという理由で
退けられ、流刑となった。
韓タク冑の権力は天子をしのぎ、 その威勢は上下の人々を制し、
その衣裳や乗り物は天子のものにかたどり、 その邸宅は天子の邸宅より贅沢であった。
へつらう者たちは、彼を恵み深い王、 徳の高い宰相、などというようになり、 なかには九章からなる詩を作って、
各章ごとに錫(しゃく)の字を一字ずつ 使い、天子から九錫(九種類の最高の恩賞)
を賜ることになぞらえる者まで出てきた。
韓タク冑も辞退せず、平気で受けていた。
→続く「手柄と慢心(4)韓タク冑の判断ミス」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
|