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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

集団・組織(2)宦官の台頭


宣帝は外戚の影響をうまく取り除き、
宣帝親政の時代を築いた。

しかし、これは宣帝の実力が並外れて
優れていたという、個の力による
ところが大きい。

普通の王ではこうはいかない。

そこで、王自らが自分の意志を
実現するために活用したのが
宦官(かんがん)であった。

東漢の孝和(こうわ)皇帝(和帝)は
十歳で帝位についた。

それで、先帝(孝章(こうしょう)皇帝)
の竇(とう)皇后が太后となって政治を
行った。

太后の兄の竇憲(とうけん)は、
しばしば中国の辺境を荒らしていた
北匈奴(きたきょうど)を大いに破って
凱旋し、朝廷に入って大将軍となった。

さらに竇憲の父子兄弟が次々に官職を得、
一族が朝廷に満ち溢れるようになると、
竇憲はついに謀反(むほん)を企てたので
ある。

そこで和帝が相談した相手は、
宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。

宦官とは、もとは刑罰として
去勢(宮刑・腐刑)された者、
異民族の捕虜などを去勢した者などを
皇帝や後宮に仕えさせたのが始まりである。

彼らは子どもが作れず権力を世襲できない
ため、皇帝は安心して自らの権力を分け
与えられるという利点があったのだ。

和帝と鄭衆は兵を整え、竇憲の大将軍の
印綬を取り上げて、迫って自殺させた。

そして和帝は鄭衆を
大長秋(だいちょうしゅう)
(皇后御所を担当する官)とし、
常に共に政治を行うようになった。

宦官が権力を用いるようになったのは、
これに始まる。

和帝の三代のち、孝順(こうじゅん)皇帝
(順帝)のとき、順帝の皇后の父、
梁商(りょうしょう)が大将軍に
任じられた。

梁商が死ぬと、その子の梁冀(りょうき)が
大将軍に、弟の不疑(ふぎ)が
河南(かなん)という地の長官になった。

八人の使者を派遣して、各州郡を巡視させる
ことになったが、使者のひとり、
張綱(ちょうこう)は、
車の輪を洛陽(らくよう)の宿場の土中に
埋め、つまり地方視察に行く気が無いことを
表現して、

「山犬や狼のような梁兄弟が中央の要路に
 のさばっているのだ。狐や狸のごとき
 地方官を調べてどうなるというのか」

と言い、梁冀と不疑が主君をないがしろに
する野望十五ヵ条を列挙して、弾劾の
上奏文を奉(たてまつ)った。

順帝は、張綱の意見が正しいことを知り
ながらも、取り上げることができなかった。

→続く集団・組織(3)外戚対宦官」
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