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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

方向のあいまいさが命取りに(2)同盟を結ぶか否か   


紹定(しょうてい)四年
(西暦千二百三十一年)五月、
元は南宋に使者を遣わして道を借りたいと
申し込んだが、南宋はこの使者を殺して
しまった。

翌年、元は再び使者を南宋に遣わして、
同盟して金を挟み撃ちしようと相談した。

京湖(けいこ)制置使(軍事担当職)の
史崇之(しすうし)がこれを取り次いで
奏上した。

朝廷の諸臣のほとんどは、

「金に対する復讐を遂げるときが
 やってきた」

と考えたが、
将軍の趙范(ちょうはん)だけは反対した。

「徽(き)宗帝の宣和(せんな)年間に、
 北宋は金と同盟して遼(りょう)を
 挟み撃ちしようと約束しました。

 その同盟も当初ははなはだ強固でしたが、
 やがて金はその約束を破り、わが国に
 とって禍(わざわい)のもとと
 なりました。

 この体験に鑑(かんが)みて
 自重すべきです」

南宋の理(り)宗皇帝は、
趙范の意見に従わず、
史崇之に詔(みことのり)して、
元の使者に承知の旨を伝えさせた。

史崇之は元に人を遣わして申し入れに
謝意を表し、さらにベン京の挟撃について
協議させた。

元側は、この作戦が成功したあかつきには
河南(かなん)の地を南宋に返すことを
約束した。

紹定(しょうてい)六年
(西暦千二百三十三年)、
金の哀(あい)宗はベン京を脱出し、
帰徳(きとく)の地に逃れたが、
食糧が絶えてしまったので、
さらに南の蔡(さい)州に走り込んだ。

金の将軍はついに首都であるベン京を
明け渡して元に降伏した。

同年四月、元の将軍がベン京に近い
青(せい)城の地まできたとき、
金の将軍が出頭し、金の太后、皇后、
王の一人などを引き渡した。

元の将軍は彼らを元へ送致した。

中国の北部を制圧した元は、孔子(こうし)
の五十世の孫の孔元楷(こうげんかい)に、
孔子の嫡流の子孫が世襲するしきたりと
なっている衍聖(えんせい)公の爵位を
継がせ、孔子廟およびそこにおさめてある
天体儀を修理させた。

南宋と元は、金の哀宗が逃げ込んでいる蔡州
を挟み撃ちにする約束にもとづいて
行動した。

史崇之は一人の将軍を遣わし、
兵四万人を率いて蔡州の東南を囲ませた。

元の兵は西北を囲んだ。

端平(たんぺい)元年
(西暦千二百三十四年)の正月、
金の哀宗は世宗の子である
承麟(しょうりん)に位を譲った。

南宋の将軍が蔡州に攻め入った。

元軍もこれに続いた。

もはやこれまでと、
金の哀宗は首をくくって死んだ。

その首を箱に入れて南宋に送った。

さらに承麟も捕らえて殺した。

金は太祖が帝と称してから、
九代、百十七年で滅亡したのである。

その年の四月、南宋では金の捕虜を太廟に
献上し、戦勝を祝った。

→続く「方向のあいまいさが命取りに(3)同盟破棄」
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