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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

要職に誰をつけるか(4)   朱全忠と唐の滅亡     


唐の末期の最悪の人事が、反乱軍の首領、
黄巣(こうそう)のもとで武将として
働いていた朱全忠(しゅぜんちゅう)を
朝廷内の問題解決に使ったことである。

昭宗は宦官(かんがん)によって
立てられた天子だった。

しかし、昭宗は聡明かつ純粋、積極的で
学問好きな教養人であった。

朝廷の勢力が日ましに衰えていくのを
見ながらも、唐王朝の最盛期の偉業を
回復しようという志を持っていた。

そういう人物なので、
彼が帝位についたときには朝廷にも民間にも
喜びの声が上がったものだった。

しかし、内では宦官勢力に制せられ、
外では強大な節度使があって、
最初の志を貫くことができなかった。

この時代の節度使は兵政・民政・財政を
掌握し、強力な権限をもっていた。

独立した小国家があちこちにあるような
ものである。

各地の節度使が兵を挙げて謀反した。

これらの反乱を収めて勢力を伸ばしたのが
朱全忠と李克用(りこくよう)である。

朱全忠は唐を亡ぼして後梁(こうりょう)を
建国し、朱全忠と争った李克用の方は、
その息子の代になってから
後梁を亡ぼして後唐(こうとう)を建国した。

これより以前、昭宗は血縁の諸王に、
兵を率いて都と鳳翔(ほうしょう)を
結ぶ地域を巡回して警戒せよと下命し、
さらに四方に派遣して各節度使を
慰撫(いぶ)しようとした。

しかし、宰相側も宦官側も、
有力者たちは兵権が昭宗に握られ、
自分たちにとって不利になることを恐れた。

皆、口をそろえて、

「そうすることはよろしくありません」

と諫めたので、
昭宗は計画をあきらめたのである。

その後、宦官の劉季述(りゅうきじゅつ)
は、勅命といつわって諸王十一人に兵を
さし向け、殺してしまった。

劉季述は昭宗を少陽(しょうよう)院に
閉じ込め、太子裕(ゆう)を立てて
天子とした。

宰相の崔胤(さいいん)は、
神策(しんさく)軍の隊長を味方にして
劉季述を殺し、昭宗を復位させたが、
宦官一派は崔胤を殺そうと謀った。

折から、朱全忠は天子を奉じて諸侯に
号令しようという野心をもっていた。

崔胤はこれを利用し、
手紙を送って朱全忠を招いた。

そこで朱全忠は兵を起こしてやってきた。

宦官一派は昭宗をおどして鳳翔府に
行かせた。

すると朱全忠は鳳翔を包囲した。

鳳翔の節度使は不利と見て宦官一派を
殺したので、朱全忠は昭宗を
奉戴(ほうたい)して
長安(ちょうあん)に還ったのである。

都に入った朱全忠は、
兵を率いて宦官を宮中から追い出し、
皆殺しにした。

使者として地方に出ている宦官も、
それぞれの所在地に詔(みことのり)を
下して殺させた。

ただ、黄色の服をつけている幼少の宦官
三十人は、宮中の掃除係として助命した。

思えば、唐王朝では文(ぶん)宗皇帝以後、
天子の廃立は宦官に握られていた。

世間では宦官を
定策国老(ていさくこくろう)
(天子を立てた功労をもつ国家の元老)と
尊称し、天子を門生天子(もんせいてんし)
(宦官の弟子のような天子)と卑称する
までになったのだが、このときになって
宦官一派は根こそぎ誅殺された。

朱全忠は、この功により東平(とうへい)王
から梁(りょう)王に爵位を進めてベン州に
還った。

これ以来、朱全忠の勢威は天下を
震い動かした。

そこで彼は天下を奪おうという志を
抱き始めたのである。

宰相の崔胤はそれを知って恐れ、
対抗する準備に着手した。

すると朱全忠は崔胤を除くよう願い出て、
内密に手の者を放って崔胤を殺させた。

そして、とうとう昭宗に進言して都を
東の洛陽(らくよう)に遷させ、
百官を促して東へ行かせ、
住民も東へと追い立てた。

昭宗はお側の者に、

「世間では

 『コツ干(こつかん)山の上は寒く、
  雀を凍らして殺してしまうほどである。

  雀よ、雀よ。

  どうして飛び去って豊かな土地へ行こう
  としないのか』

 とことわざにいうが、おちぶれた私は漂泊
 して、最後はどこへ落ち着くことやら」

といって涙を流した。

こうして昭宗は洛陽に着いた。

節度使らが唐の帝室を復興させることを
口実に朱全忠を討とうと謀った。

朱全忠は西進してその節度使らを討とうと
したが、留守中に昭宗が勝気な性格から
万一の変を起こすことを心配して、
人を洛陽に派遣して昭宗を殺させた。

朱全忠はその後、幼少の哀(あい)皇帝を
即位させた。

昭宗の子九人を殺し、自分は大宰相と
なって、四年後に新王朝の梁(りょう)を
開いた。

哀皇帝も殺され、唐王朝は
二百九十年の歴史を閉じたのである。

昭宗の場合は人事を行おうにも、
その権限が即位したときからなく、
取り返すこともできなかった。

仮に兵権を握ろうと考えたときに断行したら
どうだったか。

節度使や宦官に殺されたかもしれないが、
うまくいけば天子の親政を行う
機会になった可能性もある。

人事権を失ったトップは、
もはやトップとはいえない。

組織は自分の手から離れてしまっている
のだ。

昭宗はただの飾りとなってしまった。

企業においても、
社長は人事権を手放してはならない。

どんな制度を作ったとしても、
社長の独断ができる余地を
残しておくべきである。

なぜなら、制度の壁にぶちあたって優秀な
人材を役職に着かせられないとすれば、
そのような硬直化した組織では、
環境の激変に耐えられず、
みずから没落の道を選んでいるようなもの
だからだ。

個々の事業を誰に任せるかで企業は決まる

といっても過言ではない。

→続く「方向のあいまいさが命取りに(1)成吉思汗の読み」
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