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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

要職に誰をつけるか(1)   周亜夫の評価     


上に立つ者は人を動かして
実績を作っていくものだ。

しかし、実際に動かせる人数は限られる。

直属の部下が百名いても、
とても使いこなせないであろう。

使えるのはせいぜい数名から二十名程度。

ここにどんな人材を置くかで、
事業の過程も結果も大きく変わるのである。

日本の内閣を思い浮かべれば
分かりやすいだろう。

総理大臣がどう組閣するかで政治の内容も
国民からの支持率も違ってくる。

下手な人間を起用すると
命取りになりかねない。

西漢(かん)の孝文(こうぶん)皇帝が
亡くなる一年前(紀元前百五十八年)の
こと、匈奴(きょうど)が北辺の
上(じょう)郡と雲中(うんちゅう)郡に
侵入してきた。

文帝は詔(みことのり)を出して、
将軍周亜夫(しゅうあふ)には
細柳(さいりゅう)の地を、
将軍劉礼(りゅうれい)に
ハ上(はじょう)の地を、
将軍徐厲(じょれい)に
棘門(きょくもん)の地を
それぞれ守らせ、匈奴に備えさせた。

あるとき、文帝はみずから軍を慰問しようと
思い立ち、まずハ上、次に棘門を訪問した。

どちらも馬を走らせてすぐに陣中に入り、
将軍以下、みな騎馬で送迎した。

その後、細柳に行ったが、
軍門を入ることができない。

先駆けの兵士が叫んだ。

「まもなく天子様が軍門にお着きになるぞ」

すると、軍門を守る将校がいうには、

「軍中では将軍の命令を聞いて、
 天子様の詔(みことのり)を聞かない
 のがきまりです」

と。

そこで、文帝は使者に、天子の使いのしるし
である旗を持たせて、将軍の周亜夫に詔を
伝えさえた。

すぐに周亜夫は伝令を出し、
軍門を開かせた。

ところが、門を守る兵士が文帝の車の
護衛兵に要請した。

「軍中では車馬を走らせてはなりません。
 徐行を願います」

そこで、文帝一行は手綱を引きしめ、
徐行しながら軍営に向かった。

そして慰問の挨拶をすませて立ち去った。

群臣たちは皆、軍律のあまりの厳しさに
驚き、あきれたが、文帝は、

「周亜夫こそが真の将軍である。

 先のハ上や棘門の軍は
 子供の遊びのようなものだ」

といった。

文帝は臨終の床で、
太子(のちの孝景(こうけい)皇帝)に
こう戒めた。

「もしも国家の一大事というときが
 きたら、周亜夫を将軍にせよ」

呉(ご)楚(そ)七国の乱が起こったとき、
景帝は周亜夫を太尉(たいい)(軍事長官)
に任じ、三十六人の将軍の総大将として、
呉と楚の両国を討伐に往(い)かせた。

周亜夫は呉、楚を大いに打ち破ったので、
謀反した諸国は皆平定した。

周亜夫は後に宰相となり、
條(じょう)侯に封ぜられた。

しかし、諫言を奉って景帝の意に逆らい、
罷免され、不愉快きわまりない感じで
あった。

景帝は、

「このように不満を抱いている者は
 幼少の太子の臣下として
 置いておくべきではない」

といった。

ついにある者の讒言(ざんげん)によって
牢に入れられ、周亜夫は怒りで血を吐いて
死んだ。

彼は将軍としては優秀であったが、
朝廷で政治を行うには柔軟さが
不足していたのかもしれない。

周亜夫を宰相にしたがために、
先帝以来の功臣を殺すことになって
しまったのは景帝の
人事配置の失敗といえるだろう。

→続く「要職に誰をつけるか(2)ホウ統の才能」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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