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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

男と女(3)玄宗と楊貴妃


唐(とう)王朝の玄宗(げんそう)皇帝は、
二代前の中宗(ちゅうそう)皇帝が
毒殺されるなどの朝廷内の混乱を収め、
即位して後も、当初は賢臣を用いて優れた
政治を行い、唐の最盛期を作り上げた、
優れた人物であった。

しかし、そんな玄宗も美人には勝てず、
国を崩壊寸前にまで追いやってしまった。

愛していた武恵妃(ぶけいひ)という
寵妃(ちょうひ)に死なれ、
楽しめない日を送っていた玄宗の耳に、
玄宗の息子、寿(じゅ)王の妃が
絶世の美女であるという情報が入った。

玄宗は実際に彼女を見て、
すっかりとりこになった。

しかし、さすがに息子の嫁をいきなり
奪うわけにはいかない。

そこで、彼女自身の意志ということにして
寿王に願い出て尼僧にならせ、
寿王には他に妃をあてがった。

その後、彼女を後宮に入れたのだ。
これがあの楊貴妃(ようきひ)である。

こうして、楊貴妃が玄宗の寵愛を
独占するようになった。

ところで、これ以前に玄宗は、
異民族の武人で唐の将となっていた
安禄山(あんろくざん)という者の命を
救ったことがあった。

安禄山は辺境の防備に当たっていて
奚(けい)と契丹(きったん)に敗れ、
その責任を問われていたのである。

宰相の張九齢(ちょうきゅうれい)は
死刑を主張し、さらに

「安禄山には謀反(むほん)の
 相(そう)があります。
 今殺すべきです。

 そうしなければ、後日、
 必ずや憂いの種となるでしょう」

とまで主張したが、
玄宗は安禄山の知勇を惜しみ、
殺さなかったのだ。

安禄山は悪賢(わるがしこ)かった。

玄宗の側近が彼のいる平慮(へいろ)に
出張してきたら、
手厚く賄賂(わいろ)を贈って
機嫌をとったので、
それらの側近どもは都に帰ると、
玄宗の御前でこぞって安禄山を
誉めたのである。

玄宗は安禄山をますます賢者だと
考えるようになった。

楊貴妃のおかげで楊氏の一族は出世し、
権勢をふるうようになる。

安禄山は帝の命によって楊貴妃の
従兄(いとこ)らの兄弟分となり、
さらに自ら願い出て、
楊貴妃の義理の息子ということに
してもらった。

安禄山は玄宗の歓心を買うために、
まず楊貴妃に気に入られることを
考えたのである。

狙い通り、楊貴妃は安禄山に心を
許すようになった。

安禄山の誕生日の三日後、
召されて宮中に入った彼に、
楊貴妃はあや絹で大きなおむつを
作って彼に着せ、
美しいいろどりの輿(こし)に
乗せて宮女たちにかつがせた。

騒ぎを聞いて、
玄宗が何ごとかと側近に尋ねると、

「楊貴妃が禄坊やに産湯(うぶゆ)を
 つかわせているのでございます」

との答え。

玄宗は楊貴妃に産湯のお祝い金を
賜ったという。

これ以来、安禄山は大奥に出入りし、
夜通し退出せず、外部にはみだらな
評判が立った。

楊貴妃と安禄山の密通のうわさである。

しかし、玄宗はまったく二人を疑うことは
無かった。それどころか、さらに安禄山に
重職を与えたのである。

彼は強大な兵力を傘下におさめることに
なった。

そして天宝十四年(西暦755年)の冬、
安禄山はついに兵を起こした。

玄宗側の官軍が大敗北を喫し、
ついに都を捨てて西へ落ちのびた際、
従ってきた将兵らはいずれも飢え疲れて
憤慨した。

こうなったのも皆、楊(よう)氏らの
せいであるとして、彼らを切り殺し、
さらに玄宗に迫って楊貴妃を絞め殺した
のである。

その後、安禄山側の内輪もめなどもあり、
最後には官軍が勝利して唐王朝は
保たれたのであるが、
楊貴妃にうつつを抜かした玄宗は
この一件で国をゆるがし、
自らも不名誉を被り、
最晩年は外部の者との接触もままならぬ
鬱々とした生活を余儀なくされた。

安禄山と深いつながりをもった
楊貴妃は殺されてしまった。

男性企業経営者のなかには、
事業に邁進(まいしん)する一方で、
元気の素などと称して外に女性を
囲う人物も少なくない。

ご本人の自由ではあるが、男と女、
一歩間違うと大変な事態を引き起こす
可能性があることを、重々、
心得ておかねばならない。

→続く集団・組織(1)外戚の専横」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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