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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

7.権力者が陥る罠と組織の崩壊編

女と子供(2)孝武帝と張貴人    


東晋王朝は孝武(こうぶ)皇帝の御世、
北方の前秦(しん)軍との戦いで勝利した
後は、江東(こうとう)地方一帯に
平和が訪れた。

孝武帝は政治を末弟の
司馬(しば)道子(どうし)に任せ、
自分は日夜、酒食にふけるばかりであった。

たまたま、空にほうき星が現れた。

孝武帝は星に向かって祝杯をあげ、
こういった。

「ほうき星よ、
 おまえに一杯の酒を勧めよう。

 この世に未来永劫、
 天子であり続ける者はいない。

 わずかな期間しかないのならば楽しもう」

後宮(こうきゅう)で、最も孝武帝の寵愛
を受けていた張(ちょう)貴人(きじん)
は、年が三十歳に近かった。

ある日、孝武帝は酔った勢いで、

「おまえも年からすると、
 もうお払い箱だな」

とからかった。

すると、怒った張貴人は女官に命じて
孝武帝の顔を覆い隠させ、
窒息死させてしまった。

孝武帝は在位十五年で、その前半は名宰相の
謝安(しゃあん)が中心となって朝政を
行っていたので、東晋は栄えたのである。

司馬道子に謝安ほどの能力はなかった。

東晋の政治が後退するなか孝武帝は殺され、
代わって即位したのは孝武帝の子、
安(あん)皇帝である。

ところがこの安帝は幼児の頃から
知的障害児であって、口もきけず、
寒さ暑さも空腹も満腹も分からなかった。

寝起きから食事まで、
すべて自分の意志で行うことはなかった。

司馬道子は最初、太傅(たいふ)として
政治を補佐したものの、やがて政治を
すっかり自分の子に任せてしまったため、
東晋の政治は乱れ、内紛が絶えなくなった。

民心の動揺につけこみ、
妖術で人を惑わす孫恩(そんおん)という
者が、東海(とうかい)の島から出てきて
乱を起こす事態となったが、この孫恩を
討って手柄を立てたのが劉裕(りゅうゆう)
である。

劉裕はその後、この安帝と次の恭帝を
殺して東晋を滅亡させ、
南朝の宋(そう)を建国した。

孝武帝は宰相謝安の頃、日増しに朝廷内で
力を増大させる謝安に不安を感じて緊張を
保ったのかもしれない。

ところが、謝安に代わって弟が宰相になる
と、一気に緩んで酒浸りの日々を送る
こととなった。

その緩みが張貴人に対する暴言となって
出てしまい、彼女に殺される。

孝武帝には子が二人しかいなかったようだ
が、英明であったとされる弟でなく、
知的障害を持つ兄の方を、宰相の司馬道子
が即位させたのは、自分の思いどおりに
朝廷を動かそうという権力欲が
働いたのではないだろうか。

朝廷内に対外的な緊張がなくなると、
内部での権力闘争が始まることが多い。

その際、男性の天子の緊張感がゆるむなか、
後宮の女たちや外戚などが権力を求めて
激しく動き回るようになる。

なるべく後継者は英明でなく、
愚鈍な方が好まれる。

なぜならば、周囲の人間が好き勝手に
できるからである。

親の天子からすれば、できの悪い子ほど
かわいいという面もあるのか、
長男を天子にしてやらねば秩序が保てないと
考えるからか、
愚鈍な息子を天子にするという国を亡ぼす
道を選択しがちである。

感情を捨てて冷静に考えれば、
より優秀な者に承継させようと考えるべき
ところだが、実際はなかなか
できないようだ。

→続く「女と子供(3)光宗と李氏」
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