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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

      死の利用方法(1)     陰帝の死と郭威の即位    


どんなに権力を持っている者にも、
やがて必ず死が訪れる。

権力者の死は、
これまで不遇だった者にチャンスを、
恵まれていた者にピンチを与える
機会となる。

また、それは善人にも悪人にも同じように
巡ってくるのである。

後漢(こうかん)の時代、
国主の陰(いん)帝は十八歳で即位し、
優秀な大臣たちに政治を任せたので、
国政のすべり出しは順調であった。

しかし、陰帝は壮年になるにつれ、
左右に侍(はべ)っている寵臣たちや
親戚らと共に政治に口を出すように
なっていった。

そこで大臣たちの一人が、

「陛下には黙って何事もおっしゃらず、
 私どもにお任せください」

と進言した。

陰帝は日ごろの不満が積もりに積もって、
いらいらしていた。

お側の者たちはここぞとばかり、
あることないこと陰帝に吹き込んだ。

乾祐(けんゆう)三年(西暦九百五十年)、
陰帝はついに大臣らを殺し、
さらに秘密の勅書を発して、
出征中であった軍事担当大臣の
郭威(かくい)をも暗殺しようとはかった。

郭威の部下たちは、

「都に入って参内(さんだい)し、
 みずから自身の潔白を主張なさるべき
 です」

と勧めた。

そこで郭威は大軍を引き連れて都に
向かった。

陰帝は兵を繰り出してこれを防がせたが、
将軍たちは、ある者は降伏し、
ある者は戦わずして逃げ還った。

陰帝は入り乱れる兵たちによって
殺されてしまった。

そこで郭威は、太后に、

「武寧(ぶねい)の節度使で、
 高祖劉知遠(りゅうちおん)の弟の子、
 劉贇(りゅうひん)を新帝に
 お迎えくださいますよう」

と言上した。

しかし、その劉贇が都に着く前に、
契丹(きったん)が侵入を開始したという
情報が入ったため、朝廷は郭威を将として
遣わし、これを撃たせた。

郭威がセン州まで来ると、
部下の将兵たちが大いに騒ぎたて、
黄色の旗を引き裂いて郭威の体をおおい、
いっせいに郭威を抱きかかえて、

「万歳」

と叫んだ。

その声は天地をふるわすばかりであった。

こうして兵士たちは郭威を取り巻いて
都に還った。

郭威はとうとう後漢に代わって
帝位についた。

後漢は二代、わずか四年で亡んだ。

郭威に陰帝の死を利用しようという気持ちが
あったかどうかは分からない。

しかし、陰帝が生きていれば郭威が皇帝の位
につくことは無かったわけである。

陰帝が死んだことが、
結果的に次の後周(こうしゅう)王朝を
作るきっかけを与えたのだ。

→続く「死の利用方法(2)恭帝と趙匡胤の即位」
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