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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

権力承継の順序(3)趙匡胤と弟    


宋(そう)の太祖
趙匡胤(ちょうきょういん)は、
帝位をいちばん年上の弟に継いだ。

これが太宗皇帝である。

はじめ、太祖が天子に推戴されて都の
京城(けいじょう)に帰還したとき、
弟は真っ先に進み出て、

「私が陣頭に立って諸将に号令し、
 士卒を治めたい」

と願い出た。

太祖の許しを得ると、
みずから太祖の馬前で、

「民に対して略奪行為を働いてはならぬ」

と厳重に戒めた。

太祖が天子の位を譲り受けた後、
弟は開封(かいほう)の長官に任命され、
都の治安を維持するとともに、
宰相にもなって晋(しん)王に
封(ほう)ぜられた。

建隆(けんりゅう)二年
(西暦九百六十一年)、太祖の母である
昭憲(しょうけん)皇太后が崩御した。

太后は死に臨んで太祖に向かい、

「そなたがどうして天下を手に入れたか、
 その理由をご存知か」

と問われた。太祖が、

「それはひとえに亡き父上や母上が
 善行を積まれたお陰でございます」

と答えると、太后は笑って、

「それは違います。

 柴(さい)氏(後周〈こうしゅう〉王朝)
 が七歳の幼児を天子として治めさせた
 からなのです。

 そなたの死後は、天子の位は長弟の晋王に
 伝え、晋王は次弟の秦(しん)王に伝え、
 秦王からそなたの子の徳昭(とくしょう)
 に伝えるべきなのです。

 国に年長の君主があるのは国家を長く存続
 させることができ、幸福なのです」

と遺言した。

太祖は答えた。

「謹んでお教えに従います」

太后はその場に宰相の趙普(ちょうふ)を
呼び寄せた。

「趙書記よ、私の言葉を記録しておくれ。
 一字一句違(たが)えてはなりませぬ」

というと、趙普に命じて寝台の前で誓約書を
認(したた)めさせた。

趙普はその紙の終わりに

「臣普記(しる)す」

と署名し、金の箱に納めた。

太祖は、兄弟の情愛が
とても篤(あつ)い人だった。

弟の晋王が、あるとき、病気で床につき、
治療のために灸(きゅう)をすえたことが
あった。

すると、太祖もわが身に必要のない灸を
すえて痛みを分かち合った。

また、あるとき、
太祖は弟を賞賛していった。

「晋王の歩く姿は、竜や虎のように威厳が
 ある。

 そのうえ、晋王の生まれたときには
 不思議な瑞祥(ずいしょう)が現れた。

 後日、きっと天下のために太平を開く
 天子となるだろう。

 彼の福と徳は、
 兄の私の及ぶところではない」

太祖が蜀(しょく)の地に
行幸(ぎょうこう)したとき、無位無官の
張斉賢(ちょうせいけん)という者がいて、
十ヵ条の政策を献上した。

太祖はその男を召し出して食事を賜った。

すると男はがつがつと食べながら、
太祖の下問に答えた。

太祖は十ヵ条のうち、ある策は良作である
と誉めたところ、男は、

「いや、他の策もすべて
 これ良策でございます」

と言い張った。

あまりの頑固さに、太祖は怒って、

「下がれ」

と命じ、そのまま追い出して
しまったのである。

しかし、太祖は都に還ると、
弟の晋王にこう告げた。

「私は西都の洛陽(らくよう)に行って、
 張斉賢という人物を見つけた。

 私自身はこの男を用いようとは思わぬが、
 おまえが天子になったとき、
 この男を宰相に任ずるのがよろしかろう」

これで分かるように、
弟に位を継ごうという太祖の意向は、
だいぶ前から決まっていたのである。

→続く「権力承継の順序(4)疑惑の承継」
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