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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

承継できるものとできないもの(3)武帝と昭帝     


西漢の孝昭(こうしょう)皇帝は、
名を弗陵(ふつりょう)といった。

母の鉤弋(こうよく)夫人が懐妊してから
十四ヵ月目に生まれた。

父の孝武(こうぶ)皇帝はとても喜び、
同じく十四ヵ月目に生まれたという伝説上の
聖王、堯(ぎょう)帝にちなみ、夫人のいる
宮殿の門に堯母(ぎょうぼ)門と名付けた。

弗陵は年七歳にして身体は大きくて
知能もすぐれていた。

そこで武帝は弗陵を後継者にしようと思い、
群臣のなかから後見役を探したところ、
ただ霍光(かくこう)だけが忠誠謹厚で
あり、大事を任せるに足る。

そこで武帝は、絵のうまい宦官(かんがん)
に命じ、昔、周(しゅう)公が幼い成王を
抱いて諸侯の朝賀を受けている画を描かせ、
それを霍光に下賜させた。

それとなく霍光に意を伝えるためである。

それから武帝は、鉤弋夫人のささいな
不届きを責めて死を命じた。

その理由について武帝はこう言った。

「昔から国家が乱れる理由は、
 皇帝が幼少でその母が若く、傲慢になり、
 自分の欲望を満たそうとすることによる
 からだ」

では、この昭帝の朝廷運営は
どのようなものだったのだろうか。

わずか八歳で昭帝が即位した。

この年、燕(えん)王で名は旦(たん)と
いう者が謀反を企てた。

自分は昭帝の兄であるのに帝位に
つけなかったというのがその理由である。

しかし、昭帝は旦を許して不問に付し、
その仲間だけが処罰された。

左将軍の上官桀(じょうかんけつ)の息子が
霍光の婿となり、娘ができた。

その娘が皇后となった。

上官桀とその息子が考えるに、

「自分たちは皇后の祖父であり、
 父であるのに、霍光が外祖父として
 朝政をきりもりしているのに及ばない」

と。

それで上官桀は、霍光と権力争いをした。

その頃、昭帝および燕王旦の姉である
蓋長(がいちょう)公主は、自分の愛人を
諸侯に取り立てるように昭帝に頼んだが、
許されなかったので、霍光を怨んでいた。

また、燕王旦も、自分が天子になれないこと
で霍光を怨んでいた。

さらに、ある副宰相の男も自分の子どもたち
のために官職を求めたが得られなかったので
霍光を怨んでいた。

そこで、これらの者が結託し、燕王旦からの
上奏文を、別のある者に上奏させた。

「霍光は先ごろ、都を出て近衛兵の訓練を
 行った際、道中をまるで天子の行列と
 同様にして人払いをしたり、
 勝手に将校の増員を行ったりと、
 権力専横を進めております。

 このままでは重大事態が生じる
 可能性があります」

この上奏文は、霍光が休みで出勤しない日を
狙ってさし出された。

上官桀の考えでは、この上奏文をまず宮中で
重臣たちにまわして審議させ、その席で
副宰相が重臣たちとともに謀って
霍光を失脚させる手はずとなっていた。

こうして上奏文は提出された。

しかし、昭帝はあえてそれを握りつぶし、
重臣たちにまわさなかった。

翌日、霍光はそのことを聞き、
参内(さんだい)しても控え室にとどまって
奥へ入らなかった。

昭帝が、

「大将軍霍光はどこにいるのか」

と尋ねると、上官桀は、

「燕王旦が彼の罪を奏上したため、
 入るのをはばかり、控えております」

といった。

昭帝は勅命をもって、霍光を呼び寄せた。

霍光は御前に出て、冠を脱ぎ、
平伏して詫(わ)びた。

昭帝はいった。

「おまえが広明(こうめい)亭に行って、
 近衛兵訓練を行ったのは、
 つい最近のことである。

 また、将校を増員してから十日もたって
 いない。

 それなのに、遠方にいる燕王がなぜこれら
 のことを知ることができようか。

 そのうえ、おまえが謀反をなそうと
 思えば、いまさら将兵を増やす必要も
 なかろう」

このとき、昭帝はわずか十四歳であった。

上奏文を扱ったお側の者どもは皆、
昭帝の聡明なことに驚いた。

一方、上奏した男は逃げたので、
昭帝はこれを捕らえるよう厳重に行方を
捜させた。

悪事が露見しそうになった上官桀らは、

「このようなささいなことを追求される
 必要はありますまい」

などと言上したが、
昭帝は追及をやめなかった。

その後、上官桀の一派で霍光を
讒言(ざんげん)する者があったが、
昭帝はその都度怒り、

「大将軍霍光は忠臣である。

 先帝が特にわが身を補佐するように
 頼みおかれた人物。

 いわれなく大将軍を讒言する者は
 処罰する」

この後は霍光をそしる者はいなくなった。

上官桀らは万策尽きて、最後の手段に出た。

蓋長公主の家で酒宴を開いて霍光を招待し、
兵を伏せておいて霍光を殺したうえで、
昭帝を廃して燕王旦をつけようと謀った
のだ。

また、上官桀の息子(昭帝の皇后の父)は
燕王旦を招きよせ、来たら殺し、
昭帝を廃して父の上官桀を即位させようと
謀っていた。

しかし、これらの計画を知った者がおり、
情報を昭帝の耳に入れたので、
昭帝は上官桀、その息子、副宰相らを
捕らえ、その一族を含めて残らず殺した。

蓋長公主と燕王旦は
どちらも自害して果てた。

昭帝は十代半ばでこれほどの裁きが出来る
ほど、聡明な君主であった。

先代の武帝の目に狂いは無かったといえる
だろう。

武帝が昭帝の母親を殺したことで、
その外戚の専横は確かに起きなかった。

しかし、代わりに昭帝の皇后の外戚や、
昭帝の兄や姉が権力争いを仕掛けてきた。

結局のところ、いくら統治しやすい状況を
整えてやっても、誰がどんな欲望をもち、
後世に謀反を起こすかなど
分かりようがない。

後継者の外部条件となるもの、
つまり、富や支援体制などは承継できても、
あまり大きな意味は持たないと
考えてよさそうだ。

それら外側にあるものはさほど大きな影響力
をもっておらず、
承継できないリーダーシップ、洞察力など、
後継者の内側にあるものを早期に
育てあげておくことが大事である。

→続く「承継できるものとできないもの(4)孫策と孫権」
「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

 

 

 

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