西漢の高祖劉邦(りゅうほう)は、 こう遺言した。
「わが劉氏でない者が王に立つときは、 天下の者はこぞってこれを討て」
と。
劉邦はライバルの項羽(こうう)を亡ぼした 後、韓信(かんしん)を始めとした、 劉家以外の功臣たちを次々と粛清した。
そして、各地の王を基本的に 劉家の血筋の者だけで固めたのである。
こうした状態を作っておけば、劉氏の漢も 安泰であろうと考えたのに違いない。
そして二代目の孝恵皇帝に引き継いだ。
ところが、 肝心なものが承継できていなかった。
実権である。
恵帝即位後、 実権を握ったのは呂后であった。
れっきとした劉家の跡取りが継いだものの、 太后となった呂后が専横に振る舞い、 あわや呂氏が王朝を簒奪するという
ぎりぎりのところまでいってしまったのだ。
幼い天子が即位した場合、 その母親を中心として外戚が朝廷を
牛耳ってしまうことが多いのである。
→続く「承継できるものとできないもの(3)武帝と昭帝」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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