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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

 承継でもめる理由と結末(4)斉が亡びた経緯     


また、蕭道成が建国した斉(せい)も、
承継争いで弱体化してしまう。

蕭道成自身は太祖高(こう)皇帝となるも
在位四年で亡くなっている。

二代目武帝は即位後十一年で亡くなり、
三代目の廃帝(はいてい)
鬱林(うつりん)王は
西昌(せいしょう)侯に殺された。

西昌(せいしょう)侯は
廃帝(はいてい)海陵(かいりょう)王を
即位させたが、四ヵ月後にこれも殺して、
自ら即位して
高宗(こうそう)明(めい)皇帝となった。

この明皇帝は
高帝(蕭道成)の兄の子である。

高帝は自分の子ども以上に明帝を
愛したので、二代目武帝の太子(早くに
亡くなり、帝位につくことはなかった)は
かつて明帝を憎んでいた。

そういったいきさつもあり、明帝は即位後、
高帝や武帝の子孫を皆殺しにして、
一人も残さなかった。

明帝は位についてから五年で亡くなり、
太子が即位した。

廃帝東昏(とうこん)侯である。

廃帝東昏侯は、太子の頃から学問が嫌いで
遊び戯れるばかりだった。

即位後も朝廷の大臣や士大夫に接見すること
なく、ただ側近の小人(しょうじん)だけを
信用して次々と大臣たちを処刑した。

彼はそのうえに淫乱で狂暴だった。

寵愛する夫人のために黄金で蓮の花を作り、
床に敷きつめ、その上を歩かせて、

「一歩一歩、蓮の花が生まれる、
 これぞ極楽浄土の天女の歩みじゃ」

といって喜んだ。

このような状態なので、
左右の近臣が勝手に国政を動かし、
その横暴さはつのるばかりであった。

事態を憂えた、ある大尉が挙兵して
都の健康を襲ったが、敗れて死んだ。

ついで一人の将軍が挙兵した。

彼は謀反した諸州の反乱軍を討てという命を
受けて出陣したのだが、自分も謀反を
起こし、途中から兵を帰して
都に侵入したのだ。

そのとき、たまたま南予(なんよ)州の
長官蕭懿(しょうい)が都の近くに
駐屯していた。

東昏侯は、急いで来援を求め、
謀反した将軍を敗死させた。

蕭懿はその功によって
尚書令(しょうしょれい)に任命された。

蕭懿の弟で、当時、南雍(なんよう)州の
長官であった蕭衍(しょうえん)が
人をやって兄に伝えた。

「すぐに帝を廃立した方がいい。

 それをしないのなら都に留まるのは危険
 なので、すぐに南予州に戻るべきです」

蕭懿は弟の忠告に従わなかったところ、
弟の予想通り、ついに自害を命じられた。

そこで蕭衍は襄陽(じょうよう)の地で
挙兵し、東方に向かって都を包囲した。

城中の武将たちはこれに内応し、
東昏侯を殺して蕭衍を迎え入れた。

東昏侯の弟が江陵(こうりょう)の地で
帝を引継いで和(わ)皇帝となったが、
都の健康に帰れないでいるうちに、
斉の太后が天子に代わって大権を行使し、
蕭衍は相(しょう)国、
ついで梁(りょう)公となり、
九錫(きゅうしゃく)の優遇を得て、
さらに梁王となった。

和帝はわずか一年で帝位を蕭衍に譲り、
その後、すぐに殺された。

斉は高帝(蕭道成)からここに至るまで
七代、合計二十三年で亡んだ。

同じ一族のなかでもうずまく愛憎の嵐。

帝に愛される者があれば、
横で眺めながら妬む者がいる。

そこに対立が生じるのである。

このどちらかが権力を握ったとき、
もう片方を粛清して安心したいと思うのだ。

しかし、そのようにして殺しあううちに、
政権内部は弱体化し、
よそ者が漁夫の利を得ることになる。

内部でもめることがいかに損なことか、
上に立つ者は大局的な見地に立ち、
しっかり認識しておく必要がある。


→続く「承継できるものとできないもの(1)昭王と恵王」
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