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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

6.リーダーの条件と承継編

 承継でもめる理由と結末(3)宗が亡びた経緯     


南北朝の頃、南朝の宗(そう)では
承継問題が何代にも渡って起こり、
あげくに自国を亡ぼしてしまった。

太宗文(ぶん)皇帝の末期から六代の皇帝を
経て亡びるまでを駆け足で見てみよう。

太宗文皇帝は、
北朝の魏(ぎ)に攻め入られ、
それまで二十八年間続けてきた
元嘉(げんか)の治と称される善政は
急に衰えた。

その後、太子が巫女(みこ)と共謀して
文帝を呪い殺そうとしていたことが発覚し、
文帝はこの太子を廃そうと思ったが、
逆に殺されてしまった。

これに対して太子の弟が兵を起こして太子を
殺し、即位した。

これを世祖(せいそ)孝武皇帝という。

孝武帝は位についてから十二年で亡くなり、
太子が立った。

これを前廃(はい)帝という。

前廃帝は即位後、
父の喪(も)の最中にもかかわらず、
驕りたかぶり、怠惰で、
少しも悲しむ様子がなかった。

孝武帝は兄弟を嫌って誅殺することが
多かったが、前廃帝はもっとひどかった。

叔父らが謀反を起こしはせぬかと恐れ、
宮殿内に押し込めて杖で打ち、
引きずり回し、人間としての道をわきまえる
ことなく、勝手放題にめちゃくちゃにした
ので、朝廷の内外が騒がしくなり、
結局、暗殺された。

そして、その叔父が即位した。

これを明(めい)皇帝という。

明皇帝は即位後八年で亡くなった。

明帝の始めの頃から、
蕭道成(しょうどうせい)が大将となり、
諸方を征討して功を立てていた。

准陰(わいいん)を鎮(しず)め、
豪傑や俊才を養うようになったら
賓客(ひんかく)が盛んに訪れるように
なった。

間もなく南エン(なんえん)州の長官に
なったが、明皇帝が亡くなると
右衛(ゆうえい)将軍となり、
国家の機密の政事を掌るようになった。

太子が立った。

これを後廃(こうはい)帝という。

明帝には子が無く、後廃帝は、
明帝がお気に入りの臣の子を
わが子としたものである。

明帝は病身であり、
太子はまだ幼かったので、
明帝は邪魔をしてきそうな一族の王
十数名を殺した。

それは太子の将来を心配して
行ったことであった。

後廃帝は十歳で即位した。

その翌年、叔父の桂陽(けいよう)王が
反乱を起こし、国都健康へ攻め寄せたが、
蕭道成が将軍として迎え撃ち、
これを斬り殺した。

この功により蕭道成はまた出世した。

後廃帝は驕り高ぶって勝手のし放題。

人を殺すことを好んだので、
宮廷の内外を問わず、人々は心配し、
恐れた。

そこで蕭道成は重臣二名に相談し、
一名の賛同を得て後廃帝を暗殺し、
順皇帝を立てた。

後廃帝暗殺に反対した重臣が
蕭道成を誅殺しようとしたが、
その謀略をもう一人の重臣が蕭道成に
告げたので、彼は自分の反対派の
重臣父子を殺した。

その後、蕭道成は、相国(しょうこく)と
いう最高職につき、斉(せい)公となった
うえ、九錫(きゅうしゃく)の優遇を
加えられ、さらに位を引き上げて
斉王となった。

順帝は、位に在ること三年で位を
斉(せい)王に譲った。

帝は涙ながらにこう言ったという。

「どうかわが来世では、
 二度と天子の家に生まれませんように」

だが、蕭道成は、無情にも順帝を殺し、
順帝の一族を亡ぼした。

そして南北朝時代の宋は、
八代五十九年で亡びたのである。

承継でもめるということもあるが、
南朝の宋の場合は、即位後も自分の一族の
他の王に位を奪われるのでないかという
恐怖に皇帝が支配されていたようである。

彼らを上手にまとめあげようという努力を
せず、殺しまくったのだ。

自分で自分の首を絞め、ついにはよそ者の
蕭道成に簒奪されてしまった。

ずい分、馬鹿げたことに見えるが、
力量の無い者にとってはこういう道しか
考えられないのかもしれない。

→続く「承継でもめる理由と結末(4)斉が亡びた経緯」
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