隋王朝を開いた高祖(こうそ)文皇帝、
楊堅(ようけん)も、同じような失敗を している。
最初は勇(ゆう)という長男を太子として
いたが、勇が贅沢だったことや、 好色で妾腹の子女が多く、正妻が悩んで 死んでしまったことなどから、
文帝の妻が勇を憎んで次男の広(こう)を 太子とするように帝に勧めたので、 新たに広を太子に立ててしまった。
その後、広の淫乱な性向やずる賢さに 気づいた楊堅は、広を廃して、 また勇を立てようとするが、結局、父と兄の
二人は広に殺されてしまうのである。
広は即位して煬帝(ようだい)となり悪政を
施したため、隋王朝は短命に終わった。
ある者を太子と決めた後でも、 欠点が目に付いて他の者に替えたいと
思うことはあるだろう。
しかし、これを周囲に漏らすと 必ず揉め事が生じる。
太子は「廃されはしないか」と心配し、 他の候補者は「天子になれるかもしれぬ」と 希望を抱くのであるから当然である。
一度、太子と決めた以上は、 何があっても変更せず、その太子を支えて いくという姿勢を現天子が見せることが
必要ではないだろうか。
廃する場合には、 周囲の誰もが納得する理由が必要である。
→続く「承継でもめる理由と結末(3)宗が亡びた経緯」 →「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】
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