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「十八史略」に学ぶ兵法経営【目次】

2.人間の本質と欲望編(基本)

親子・兄弟(2)秦の始皇帝


例えば、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)
が帝位に上り詰めた過程は醜悪である。

なんと、かの有名な始皇帝は秦の王家の
血族ではなく、一介の商人の謀略によって
作り上げられた存在だったのだ。

秦の始皇帝、名は政(せい)が誕生して
始皇帝となるまでのいきさつは
以下の通りである。

秦の昭襄(しょうじょう)王
(前306-前251年在位)の時、
のちの孝文(こうぶん)王、柱(ちゅう)が
太子となった。

その昭襄王の庶子(しょし)、つまり妾腹の
子に楚(そ)という者がいた。

楚は趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)で
人質となっていた。

その頃、陽テキ(ようてき)という地に
住んでいた豪商の呂不韋(りょふい)という
者が邯鄲に行き、楚に会った。

「これは掘り出し物だ。使えるかも知れぬ。
 手に入れておこう」

呂不韋は秦に行き、太子柱の妃(きさき)、
華陽(かよう)夫人の姉に頼んで、
彼女を通じて楚を立てて世継ぎとするよう
工作し、成功した。

呂不韋はそこで邯鄲の美女を娶(めと)り、
やがてその女が自分の子を身ごもると、
女を楚に献上したのである。

この女が生んだのが政、後の始皇帝である。

したがって、
始皇帝は商人呂不韋の子であり、
秦の王家とはまったく血のつながりは
無いのだ。

その後、太子柱が即位した(孝文王)が、
三日で亡くなった。

ついで楚が王となった
(荘襄〈そうじょう〉王)が、
在位四年で没した。

このとき、政は十三歳でついに王となり、
政の母親、もとは呂不韋の妻だった女が
太后(先代の王の正妃で、
政事に隠然たる力をもつ存在)となった。

呂不韋は荘襄王の時代に秦の宰相と
なっていたが、このとき、
さらに文信(ぶんしん)侯に
封(ほう)ぜられた。

太后と呂不韋の関係は続いており、
再び密通したのである。

政もいつしか成長して、実権を握ったのち、
この不義を知った。

呂不韋は自殺し、太后も位を剥奪され、
別の宮殿に軟禁された。

子が両親を罰する結果となったのだ。

しかし、やはり母と子の関係の方が
深いのであろうか。

茅蕉(ぼうしょう)という臣下の諫言に
より、太后は元の位に戻され、
母子の関係は元通りになったという。

→続く親子・兄弟(3)隋の煬帝」
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