ハマモト経営の指針集 『論語』より

参考図書『論語』宇野哲人全訳注 講談社学術文庫

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「子曰く、『先進の礼楽に於けるは野人なり。後進の礼楽に於けるは君子なり。』如し之を用いば、則ち吾は先進に従わん。」

読み方「し いわく、『せんしんの れいがくに おけるは やじんなり。こうしんの れいがくに おけるは くんしなり。』もし これを もちいば、すなわち われは せんしんに したがわん。」

(意味)孔子がいうには、「先輩の礼楽はかざりが少なくて野人のようである。後輩の今の人の礼楽はかざりと質がよくて君子のように立派である」というが、もし私が礼楽を用いるなら、先輩の礼楽を用いたい。(今の方がかざりが過ぎているからだ)

→ 飾りが多すぎても少なすぎても、礼に失する。

中庸とはどの程度なのか、よくわきまえなければならない。

徳を外に向かって表現したものが礼である。中身が問われているのだ。






「回や我を助くる者にあらざるなり。吾が言に於いて説ばざる所なし。」

読み方「かいや われを たすくる ものに あらざるなり。わが げんに おいて よろこばざる ところ なし。」

(意味)弟子の顔回は私(孔子)を助けて知恵を増すような質問をすることはない。ただ私の言葉を聞いて悟って喜んでいるのみである。

→ 質問はよいことだが、深く悟れば質問することも無い。

顔回はそのレベルに達していたので、質問はしないが、孔子の言うことを実行できた。

質問するかしないかに関わらず、学んだことを実行する者でありたい。






「孝なるかな閔子騫。人其の父母昆弟の言を間せず。」

読み方「こうなるかな びんしけん。ひと その ふぼこんていの げんを かんせず。」

(意味)孝行である、閔子騫は。父母兄弟がその孝行ぶりをほめても、誰も異議を唱えない。

→ 身内をほめる姿を見て、「もっともだ」と他人も思うほどの人物は滅多にいない。

それほどまでに徳を行動であらわすのが理想である。

身内が「たいしたことない」と自分をけなしたら、他人が怒り出すほどの人間を目指そう。






「南容白圭を三復す。孔子其の兄の子を以て之に妻わす。」

読み方「なんよう はくけいを さんぷくす。こうし その あにの こを もって これに めあわす。」

(意味)弟子の南容は「白圭(白い、角のある玉)の欠けたのは磨けばなおる。言葉のかけたのはなおせない」という意味の詩を毎日繰り返し読んだ。このように言葉を謹む者なので、孔子は兄の子をこの男の妻とした。

→ 言葉は現実となる。

だから、言葉を大切にする者は、成功しやすく大きな過ちをおこしにくい。

また、道に基づいた正しい道を生きることとなる。言葉は吟味して使おう。






「顔淵死す。顔路子の車を請うて之が椁を為らんとす。子曰く、『才も不才も亦各其の子と言うなり。鯉や死せしとき棺ありて椁なかりき。吾徒行して以て之が椁を為らず。吾の大夫の後に従うを以て徒行すべからざればなり。」

読み方「がんえん しす。がんろ しの くるまを こうて これが かくを つくらんと す。し いわく、『さいも ふさいも また おのおの そのこと いうなり。りや しせし とき かん ありて かく なかりき。われと こうして もって これが かくを つくらず。われの たいふの しりえに したがうを もって とこう すべからざれば なり。」

(意味)顔淵が死んだ。父の顔路は孔子の車を請うて、これを売って外棺を買おうと思った。孔子がいうには「子に才能があろうが無かろうが、父から見れば子を愛する情に変わりは無い。昔、私の子の鯉が死んだときはただ棺だけで外棺は無かった。私は車を売って徒歩し、鯉のために外棺を作ってはやらなかった。私が大夫の末席におって、車を捨てて徒歩することはできなかったからだ。

→ 特にかわいがっている者には、他の者とは別の特別待遇をしてやりたくなる。

しかし、それは自分の情に負けたのであり、正しい筋道とは言えない。

部下、社員に変わりは無い。厳正なルールのもとに処遇を決定しよう。





「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼす。天予を喪ぼす。」

読み方「がんえん しす。し いわく、ああ、てん われを ほろぼす。てん われを ほろぼす。」

(意味)顔淵が死んだ。孔子がいうには、顔淵によって道を伝えようとしたのにそれができなくなった。ああ、天が我をほろぼしたのだ。天が我をほろぼしたのだ。

→ 教育というのは「継続」することで、「断絶」の反対である。

その「継続」の道をたたれることは、もとをたたれたのに等しい。

伝える努力を惜しまないこと。企業内でも、それが重要なことなのである。






「顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、『子慟せり。』曰く、『慟することあるか。かの人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。』」

読み方「がんえん しす。し これを こくして どうす。じゅうしゃ いわく、『し どうせり。』いわく、『どうする こと あるか。かの ひとの ために どうするに あらずして たれが ために せん。』」

(意味)顔淵が死んだ。孔子が大声を上げて泣き叫び、過度に悲しんだ。従っていた門人がいうには、「先生、悲しみすぎです」と。孔子がいうには、「悲しみすぎたか。あの人が死んだことに対して過度に悲しまなければ、いったい誰の為に心の底から悲しむのだ。」と。

→ 人間は感情を持った動物であり、感情にも人間として正しいものとそうでないものがある。

心から愛する者、尊敬していた人物などが亡くなれば、慟哭して当たり前だ。礼にかなっている。

むしろ、そのようなときに冷静でいられるのは、人間として大切なものが欠落しているのである。






「顔淵死す。門人厚く之を葬らんと欲す。子曰く、『不可なり。』門人厚く之を葬る。子曰く、『回や予を視ること猶父のごとし。予視ること猶子のごとくするを得ず。我にあらざるなり。かの二三子なり。』」

読み方「がんえん しす。もんじん あつく これを ほうむらんと ほっす。し いわく、『ふかなり。』もんじん あつく これを ほうむる。し いわく、『かいや われを みる こと なお ちちの ごとし。われ みる こと なお この ごとく するを えず。われに あらざるなり。かの じさんしなり。』」

(意味)顔淵が死んだ。顔淵の門人は厚くこれを葬ろうとした。孔子がいうには「それはダメだ」と。しかし門人は厚く葬った。孔子がいうには、「回(顔淵)は私を父のように視ていたが、私は回を、我が子の鯉を葬ったときのように礼にかなうように葬ることができなかった。つまり子のような待遇をすることができなかった。しかしこれは、私の過ちではない。かの門人たちがしたことだ。」と。

→ 孔子は、どんな場合でも感情に流されることなく、道を行おうとしている。

我が子や愛弟子が死んで、感情としては厚く葬りたくても、礼にかなった葬り方をしたかったのだ。

本質が礼に現れる。会社では、礼がきちんと行われているか、確認しよう。






「季路鬼神に事うることを問う。子曰く、『未だ人に事うること能わず。焉んぞ能く鬼に事えん。』敢えて死を問う。曰く、『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。』」

読み方「きろ きしんに つかうる ことを とう。し いわく、『いまだ ひとに つかうる こと あたわず。いずくんぞ よく きに つかえん。』あえて しを とう。いわく、『いまだ せいを しらず。いずくんぞ しを しらん。』」

(意味)季路(子路)が山川の神や代々の君主の霊につかえる道を質問した。孔子がいうには、「未だ人につかえることがきちんとできていないのに、どうして鬼神につかえることができようか。」と。季路はあえて死について質問した。孔子がいうには、「未だ生の道を知らないのに、どうして死の道を知ることができようか。」と。

→ 人はやたらと自分は手も足も出さないような遠大なことを論じたがる。

例えば、政治や世界平和、地球環境問題、宇宙開発等々・・・。

本当は自分ができること、身近な問題をこそ、きちんと解決していくことが先だ。






「魯人長府を為る。閔子騫曰く、『旧貫に仍らば之を如何。何ぞ必ずしも改め作らん。』子曰く、『夫の人言わず、言えば必ず中ることあり。』」

読み方「ろひと ちょうふを つくる。びんしけん いわく、『きゅうかんに よらば これを いかん。なんぞ かならずしも あらため つくらん。』し いわく、『かの ひと いわず、いえば かならず あたる こと あり。』」

(意味)魯の役人が黄金と玉、布と絹を入れる長い倉庫を造った。閔子騫がいうには、『もとのままにして修繕を加えたらどうか。(人民を疲れさせ、お金を使うことになるから)何も改め作る必要はないだろう。』と。孔子は、『あの人は滅多に物を言わないが、言えば必ず道理にあたっている。』といった。

→ 発言の量の多さは、必ずしもその人が優秀であることを示さない。

発言の質によって、判断基準や思考回路の優劣を推し量ることができる。

ただし、量が重要でないということではない。中庸を心がけるに尽きる。







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