ハマモト経営の指針集 『論語』より

主要参考図書『論語新釈』宇野哲人著 講談社学術文庫

  季氏第十六

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「孔子曰く、益者三友。損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは、損なり。」

読み方「こうし いわく、えきしゃさんゆう。そんしゃさんゆう。ちょくを ともと し、りょうを ともと し、たぶんを ともと するは、えきなり。べんへきを ともと し、ぜんじゅうを ともと し、べんねいを ともと するは、そんなり。」

(意味)孔子がいうには、我に益のある者に三種の友がある。我に損のある者に三種の友がある。直言して隠すことのない者、誠実で表裏のない者、ひろく古今に通じている者を友とすれば益がある。礼儀作法になれて直言しない者、何ごとにも媚びて誠のない者、口先が上手で実際の見聞のない者を友とすれば損になる。

→ 自分に厳しいことを言い、表裏が無く、いろんなことを知っている者。

そんな人物があなたの回りにいるか?

いないなら、あなた自身が遠ざけた可能性がある。振り返ってみよう。






「孔子曰く、益者三楽。損者三楽。礼楽を節することを楽しみ、人の善を道うを楽しみ、賢友多きを楽しむ、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむ、損なり。」

読み方「こうし いわく、えきしゃ さんらく。そんしゃ さんらく。れいがくを せっする ことを たのしみ、ひとの ぜんを いうを たのしみ、けんゆう おおきを たのしむ、えきなり。きょうらくを たのしみ、いつゆうを たのしみ、えんらくを たのしむ、そんなり。」

(意味)孔子がいうには、我に益をもたらす三種の楽しみがあり、我に損をもたらす三種の楽しみがある。礼の制度・楽の声容の程よいところを好むことを楽しみ、人の善言善行をいうことを楽しみ、直諒多聞の賢友の多いことを楽しめば益がある。驕り楽しむことを好み、安逸をむさぼることを好み、酒食の楽しみを好めば損がある。

→ 人生は楽しむことが大事。ただ、楽しみの中身が問題だ。

礼や音楽も行き過ぎてはダメ、ほどよいのがよい。人の長所をほめよう。

自分を高めてくれる友が多いことを喜ぼう。そうすれば楽しみつつ、自分も高まりますね。






「孔子曰く、君子に侍するに三愆あり。言未だ之に及ばずして言う。之を躁と謂う。言之に及んで言わず。之を隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う。之を瞽と謂う。」

読み方「こうし いわく、くんしに じするに さんえん あり。げん いまだ これに およばず して いう。これを そうと いう。げん これに およんで いわず。これを いんと いう。いまだ がんしょくを みずして いう。これを こと いう。」

(意味)孔子がいうには、徳あり位ある君子に仕えるのに三つの過ちがある。まだ話しかけられていないのに言うのは過ちで、これを躁(さわがしい)という。話しかけられたのに黙って言わないのは過ちで、これを隠(かくす)という。先方の顔色を見ずに己の思うままに言うのは過ちで、これを瞽(めくら)という。

→ 上司や目上の人、位の高い人と話すときの注意事項である。

このような点に注意して相対していれば、高く評価してもらえるものだ。

相手に敬意を表することで、逆に敬意を表される。わかる人にはわかるのだ。






「孔子曰く、君子に三戒あり。少き時は、血気未だ定まらず。之を戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは、血気方に剛なり。之を戒むること闘うに在り。其の老ゆるに及んでは、血気既に衰う。之を戒むること得るに在り。」

読み方「こうし いわく、くんしに さんかい あり。わかき ときは、けっき いまだ さだまらず。これを いましむる こと いろに あり。その そうなるに およんでは、けっき まさに ごうなり。これを いましむる こと たたかうに あり。その おゆるに およんでは、けっき すでに おとろう。これを いましむる こと うるに あり。」

(意味)孔子がいうには、時に随ってあらかじめ戒めて犯さないようにすることが3つある。少年のときは血気がまだ定まらないで、欲が動けばおぼれ易いから、女色を戒めることだ。壮年になると血気が盛んに強くて人と衝突し易いから、争闘を戒めていかりをこらすようにする。老年になると血気が衰えて肉体上の欲望はなく、一身一家の安全幸福を思うようになるから、財貨を得ることを戒めることだ。義を思うようにする。

→ 年齢を重ねるに従い、その欲望も異なる。

自分の欲望を知り、行き過ぎを戒めるようにしなければならない。

少しの過失で、一生を棒に振ることになる可能性もある。気をつけよう。






「孔子曰く、君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。」

読み方「こうし いわく、くんしに さんい あり。てんめいを おそれ、たいじんを おそれ、せいじんの げんを おそる。しょうじんは てんめいを しらずして おそれず、たいじんに なれ、せいじんの げんを あなどる。」

(意味)孔子がいうには、君子には畏れ敬うことが3つある。天命(天が人に与えた正しい道理)に違わないよう日夜用心し、大人(徳と位とを兼ねて天命をまっとうした人)、聖人の言(天命を教えるもの)を畏れ敬う。小人は天命を知らないから、天命を畏れず、大人をあなどり、聖人の言を玩ぶのだ。

→ 自分を修めようとすると、当然理想として畏れ敬うものが出てくる。

修めようとしなければ、理想の姿などは無い。

自分の私欲のままに生きようとしていないか。なるべく若いうちに気づいた人は幸せだ。






「孔子曰く、生れながらにして之を知る者は上なり。学んで之を知る者は次なり。困しんで之を学ぶは又其の次なり。困しんで学ばず、民斯を下となす。」

読み方「こうし いわく、うまれながらに して これを しる ものは じょうなり。まなんで これを しる ものは つぎなり。くるしんで これを まなぶは また その つぎなり。くるしんで まなばず、たみ これを げと なす。」

(意味)孔子がいうには、生まれつき自然に道理を知っている者は最上の人物である。人から学んで後道理を知る者はその次の人物である。初めのうちは学ぶことを知らずにくるしんで、後に道理を学ぶものはその次である。くるしんでも学ぼうとしない者は、最下等の者である。

→ うまくいかないのに学ぼうとしない者は最低だ。

それ以上は気質は違っても、道理を知るに至れば同等である。

くるしんでもよい。その後に学んで実践すれば、道は開けるのだ。






「孔子曰く、君子に九思あり。視ることは明を思い、聴くことは聡を思い、色は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿りには難を思い、得るを見ては義を思う。」

読み方「こうし いわく、くんしに きゅうし あり。みる ことは めいを おもい、きく ことは そうを おもい、いろは おんを おもい、かたちは きょうを おもい、げんは ちゅうを おもい、ことは けいを おもい、うたがわしきは といを おもい、いかりには なんを おもい、うるを みては ぎを おもう。」

(意味)孔子がいうには、君子の思うところは九つある。視ることは見ないところのないことを思い、聴くことは聞かないところのないことを思い、顔色は温和であることを思い、容貌は恭しく質素であることを思い、言葉は心と口を一致させようと思い、事を行うには心を専一にして怠らないことを思い、疑わしいことは問うて明らかにしようと思い、忿るときは難事を招くことを思ってこれを抑え、得る場合には取るべきか取るべきでないかを思う。

→ 思いの中身が人間を決めるといってよい。

視る、聴く、表情など、どんな思いが心にあるかで変わってくる。

自分がどんな思いでいるか、ときどき、心の中をチェックしてみよう。






〔孔子曰く、「『善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。』吾其の人を見る。吾其の語を聞く。『隠居して以て其の志を求め、義を行って以て其の道を達す。』吾其の語を聞く。未だ其の人を見ず。」〕

読み方〔こうし いわく、「『ぜんを みては およばざるが ごとくし、ふぜんを みては ゆを さぐるが ごとくす。』われ その ひとを みる。われ その ごを きく。『いんきょして もって その こころざしを もとめ、ぎを おこなって もって その みちを たっす。』われ その ごを きく。いまだ その ひとを みず。」

(意味)孔子がいうには、「『善を見てはなかなかつかまえられないものを一心に追いかけるように追求し、不善を見ては熱湯に指を入れるかのように恐れる。』わたしは現在、このような人のあるのを見、このような語のあるのを聞く。『天下に道が無いときは世に用いられないで隠れて志を行う道を求め、天下に道があれば君臣の義を行うことによりその道を達する。』私は昔の人の中にこの語を聞いたけれども、現在はまだこのような人を見ない。」

→ 善を追求し不善を排除しようとするのは、現代もその姿勢を見ることができる。利の追求と対立しないから。

しかし、天下に道が無いときは隠れ、天下に道があるときは世に出て義を行うという人は見ない。

利の追求と相入れないからだ。私たちはそれをめざそうではないか。






「斉の景公馬千駟あり。死するの日、民徳として称するなし。伯夷叔斉首陽の下に蛾う。民今に到るまで之を称す。(誠に富を以てせず、亦祗に以て異なりと)其れ斯を之れ謂うか。」

読み方「せいの けいこう うま せんし あり。しするの ひ、たみ とくと して しょうする なし。はくい しゅくせい しゅようの もとに うう。たみ いまに いたるまで これを しょうす。(まことに とみを もって せず、また まさに もって いなり と)それ これを これ いうか。」

(意味)斉の景公は馬を四千頭持っていた。しかし死んだとき、民は景公の徳を指して称する者は無かった。伯夷叔斉の二人は周の粟を食うことを恥じて首陽山の下で餓死した。民は今に到るまでこれを称美している。「名の称せられるのは富によるのではなく徳の常人に異なるのによるのである」とは、景公と伯夷叔斉のことを謂うのだろうか。

→ 富を得たいというのは、私欲である。

私欲を満たしたからといって、誰もそれをほめたりはしない。社会のためにもならない。

どう社会の為に富を役立てるか。それが大事なことだ。






〔陳亢伯魚に問うて曰く、「子も亦異聞あるか。」対えて曰く、「未だし。嘗て独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰く、『詩を学びたりや。』対えて曰く、『未だし。』『詩を学ばざれば以て言うなし。』鯉退いて詩を学べり。他日又独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰く、『礼を学びたりや。』対えて曰く、『未だし。』『礼を学ばざれば以て立つなし。』鯉退いて礼を学べり。斯の二者を聞けり。」陳亢退いて喜んで曰く、「一を問いて三を得たり。詩を聞き礼を聞き又君子の其の子を遠ざくるを聞けり。」〕

読み方〔ちんこう はくぎょに とうて いわく、「しも また いぶん あるか。」こたえて いわく、「いまだし。かつて ひとり たつ。り はしって にわを すぐ。いわく、『しを まなびたりや。』こたえて いわく、『いまだし。』『しを まなばざれば もって いう なし。』り しりぞいて しを まなべり。たじつ また ひとり たつ。り はしって にわを すぐ。いわく、『れいを まなびたりや。』こたえて いわく、『いまだし。』『れいを まなばざれば もって たつ なし。』り しりぞいて れいを まなべり。この にしゃを きけり。」ちんこう しりぞいて よろこんで いわく、「いちを といて さんを えたり。しを きき れいを きき また くんしの その こを とおざくるを きけり。」

(意味)陳亢が孔子の子の伯魚に問うていうには、「あなたは先生のめずらしいお話を聞いたことがありますか。」と。伯魚がこたえていうには、「未だありません。かつて父が独りで立っておりましたとき、鯉(伯魚の名)は趨って庭を通り過ぎました。父が『詩三百篇を学んだか』と申しましたから、『まだ学びません』とこたえますと、父は『詩を学ばなければ、人に応対して能く言うことができない』と申しましたから、鯉は退いて詩を学びました。他日、また父が独りで立っておりましたとき、鯉は趨って庭を通り過ぎました。父が『礼を学んだか』と申しましたから、『まだ学びません』とこたえますと、父は『礼を学ばなければ、能く身を立てることができない』と申しましたから、鯉は退いて礼を学びました。この二つを聞いただけです。」陳亢は伯魚のこたえを聞いて退いて喜んでいうには、「一事を問うて三事を聞くことができた。詩を学ぶべきことを聞き、礼を学ぶべきことを聞き、また君子がその子を遠ざけてひそかに厚くはしないことを聞いた。」と。

→ 自分の子だけ特別扱いをしない。

特に厳しくすることもなければ、特に甘く、特に親切にすることもない。

子供はあくまでも社会の子である。これが本来の人間のあり方だろう。






「陽貨孔子を見んと欲す。孔子見えず。孔子に豚を帰れり。孔子其の亡きを時として、往いて之を拝す。諸に塗に遇えり。孔子に謂って曰く、『来れ予爾と言わん。』曰く、『其の宝を懐いて其の邦を迷わず、仁と謂うべきか。』曰く、『不可なり。』『事に従うを好んで、亟時を失う。知と謂うべきか。』曰く、『不可なり。』『日月逝く、歳我と与ならず。』孔子曰く、『諾、吾将に仕えんとす。』」

読み方「ようか こうしを みんと ほっす。こうし まみえず。こうしに ぶたを おくれり。こうし その なきを ときと して、ゆいて これを はいす。これに みちに あえり。こうしに いって いわく、『きたれ われ なんじと いわん。』いわく、『その たからを いだいて その くにを まよわす、じんと いうべきか。』いわく、『ふかなり。』『ことに したがうを このんで、しばしば ときを うしなう。ちと いうべきか。』いわく、『ふかなり。』『じつげつ ゆく、とし われと ともならず。』こうし いわく、『だく、われ まさに つかえんと す。』」

(意味)陽貨(季氏の家臣)が孔子を呼んで会おうとした。孔子は会わなかった。陽貨は豚を贈った。(礼を言いにこさせようとしたのだ)孔子は、陽貨の留守のときに行って、礼を言うことにした。が、道でバッタリ遇ってしまった。陽貨が孔子に言うには、「こちらへ来なさい。私はあなたと話したい。」と。そして、「あなたのように道徳という宝を持ちながら邦の迷いを救わないのを仁と謂いますか。」孔子は「いいえ、仁ではありません。」と答えた。「あなたのように世を救うことを好みながらその機会を失うのは知と謂いますか。」孔子は「いいえ、知ではありません。」と答えた。「日月は過ぎ去ってかえらず。年歳は少しも留まらない。仕えるなら今ですよ。」孔子は「承知しました。私はもとより仕えようとしています。」と答えた。

→ 小人と話すときはどうすべきか。

孔子は、まるで相手の言うことがどういう意味か、全くわからないふりをしている。

小人を正面から相手にしてはいけない。言ってもわからないからだ。



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