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エピソード集

「孫子の兵法」を駆使したと思われる兵法家のエピソード4

武田信玄「弱者の戦法」


武田信玄の「弱者の戦法」

弱者である我がスパイを駆使して強敵の情報を吸い上げ、隙を狙い撃ちして勝つ戦法。

【登場人物】

甲斐(かい):国主 武田晴信(たけだはるのぶ)、後の信玄



あるとき、信濃の国の大名たち、

小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曽義康

が力を合わせて武田晴信を討とうと申し合わせている
という情報が武田側に伝えられた。

武田の家老たちは、

「駿河の今川義元公に頼み、義元公のご出馬を願うか、
兵力1万の加勢をしていただきましょう」

と晴信に進言した。

晴信はこの意見を退け、

「未熟ながらこの晴信に、すべて任せてもらいたい」

と言った。

そして、間者(スパイ)70人の中から、
足も強く腕前も達者な者を30人選び出し、
彼らの妻子を人質にとって武田の重臣3人に
10人ずつ預けた。

そして30人の間者を敵の村上領へ10人、諏訪領へ10人、
小笠原領へ10人派遣し、状況を偵察させたうえに、
そのうち2人ずつを立ち戻らせて、
こちらから出向いた侍に報告を行わせ、
再び敵地へ赴かせるなどした。

晴信はこれらの間者たちに直接、命令を与え、
出発させたのだ。

さらに、間者たちの人質を預かった重臣3人の配下から、
十分に信頼できる侍を2~3人ずつ選び、
国境のあたりまで出して、
戻ってきた間者の報告を早馬で晴信の元へ伝えるように
命令した。

そして、甲斐に散らばっている晴信の軍勢をひそかに
甲府に集めるとともに、館の堀を広げるという意向を示し、
重臣たちと陣立ての相談をしながら報告を待っていた。

一方、敵方は小笠原、諏訪、村上、木曽、4人の大将が
集まって、甲斐と信濃の国境付近に陣をとり、3日間、
馬を休めてから甲府に進入しようという軍議が
まとまっていた。

武田の間者たちはこのことを知り、走り帰って詳しく報告した。
それによれば、

「武田側が甲府の堀を広げようとしているのは
 大軍を迎えての籠城の支度をしているためだろうから、
 武田方が討って出る一戦はよもやあるまい。
 甲府のお館を取り巻くことになれば、
 夜に合戦が起こるだろう」

というのが、敵方の判断であるとのことだった。

晴信はすぐに侍大将、足軽大将を召し寄せ、
すぐに出動せよと命じた。その理由は、

「敵方が一日休息したうえで2方面から攻め込んでくるなら、
 こちらも兵を分けなければならなくなり、
 8千の兵を二つに分けると危険な合戦となる。

 信濃は大国であり、敵兵は味方の2倍としても1万6千。
 味方1人に敵2人なら、こちらは地元で戦うのであり
 経験豊か。

 諏訪頼重と村上義清をさえ切り崩せば、
 木曽、小笠原は我を忘れてよろいの背を見せ、
 逃げ散るであろう」

ということだった。

晴信は命令を下し、即座に出発。
韮崎または武川の付近に陣をはった。

上下全軍、1人につき3人前の食糧を用意し、
夜半に出発して翌日の午前7時ごろに開戦と申し合わせた。

そして、戦が始まった。

「武田勢は一部隊も出てくることはあるまい」

と、敵方は油断していたため、
武田勢にとって始めからこの合戦は有利だったが、
6時間ほどの間に9回もの戦いがあった。

諏訪勢には飯富兵部、村上勢には甘利備前、
小笠原勢には板垣信方、
木曽勢には小山田佐兵衛が当たり、
晴信の旗本は味方の崩れかかるところへ助勢する。

天文11年(西暦1542年)3月9日、午前8時に武田勢から
始められたこの合戦は、午後2時に終わった。

信濃勢を討ち取ること1621名。頸(くび)帳を記録し、
勝どきをあげた。

武田信玄、22歳の時であった。

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